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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の札幌 (一)
 
 

 2008年8月、道立近代美術館で「没後40年 レオナール・フジタ」展がひらかれていた頃、北海道新聞夕刊、「今日の話題」コラムに「藤田と北海道」という一文が載りました。

 パリで活躍した世界的な画家藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886−1968年)は、戦時中に一度、北海道を訪れているようだ。
 夏堀全弘著「藤田嗣治芸術試論」(三好企画)で、藤田自身が次のように述べている。
 「偶々記録画巡回展が青森市で催された時のことである。その前年札幌で同じく巡回展の帰路、あの海峡で暴風雨に…」
 藤田の記憶通りだと、青森で戦争記録画の巡回展が開かれた前年、札幌で開かれた同様の巡回展を訪れたことになる。

 へえー。藤田の戦争画といえば、あの、有名な「アッツ島玉砕」のことだろう。ま、有名なのかどうかはわからないけれど、私が知ってる藤田嗣治の絵って、「アッツ島玉砕」しかありません。

 青森での巡回展には、藤田が一九四三年に描いた傑作「アッツ島玉砕」が展示された。この作品が全国各地で公開されたのは四四年とみられるので、藤田はその前年の四三年に、札幌を訪れたのだろう。
 同年、藤田の作品が展示された記録が残る札幌での展覧会は、六月に開かれた「第三回大東亜戦争聖戦美術展」だけなので、同展のために札幌を訪れた可能性が高い。
 今のところ、確認できる藤田の来道は、この一度だけだ。

 「アッツ島」。昭和18年(1943年)5月12日、米軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍と米軍との戦闘。山崎保代陸軍大佐の指揮するアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に全滅した。米軍の戦死550名に対して日本軍の戦死は2638名。
 ちなみに、大本営が「玉砕」の言葉を使い始めたのは、このアッツ島の戦いが初めて。山崎陸軍大佐は「軍神」とされ、死後、中将に二階級特進。
 藤田はなぜ「アッツ島」を選んだのだろう。「敗北」を「玉砕」と糊塗したい大本営の意向だろうか?あるいは、藤田嗣治の美学が数ある戦闘・戦場の中から「玉砕」を選んだのだろうか?

 わからない。でも、私が藤田の絵で「アッツ島玉砕」しか知らなかった理由ははっきりしています。

 戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。しかし、彼はクリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現している。
 戦後になり、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ば生贄に近い形で戦争協力の罪を非難された彼は、渡仏の許可が得られると「日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してパリへ向かい二度と日本には戻らなかった。フランスに行った後、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく藤田は語った。その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で書いた」のになぜ非難されなければならないか、と手記の中でも述べている。
(ウィキペディア)

 私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ。

 今、2011年5月。その5月も、もうすぐ終わろうとしています。震災からあっという間に三ヶ月が経ちました。本を読んでも、落ち着かない。夜中に目が覚め、ふと飯舘村のことを考えたりする。