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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の小樽 (一)
 
 

♪ 小林三ツ星堂パン店
小樽で一番のパン屋さん
甘いアンパン アンコでパンパン
とろとろとろける クリームパン
(井上ひさし「組曲虐殺」)

 新聞記者・石川啄木の書いた記事の中に「空前の大時化」(小樽日報/明治四十年十二月八日・第四十一号)があります。これは、明治40年12月6〜7日にかけて小樽地方を襲った大暴風雪の被害状況を報告したものですが、この中で、「▲陸上の損害」として「稲穂町交番付近の小林パン製造所」の屋根半分が吹き飛ばされたことが書かれています。
 小林パン。おそらくは、これは、小林多喜二も住み込みで働いていた伯父・小林慶義の経営する工場「小林三ツ星パン」だと考えるのですが、ただ「稲穂町」という記述が気になります。この明治40年当時、すでに工場は「新富町」に移転しているから。

 パン屋「小林三星堂」を開店し、商売も軌道に乗り始めた矢先でした。明治37年の小樽大火で店が全焼してしまいます。しかし慶義はここが勝負どころとばかりに、なんと火事の翌日、すぐさま新しいパン工場を建て始めたのです。
 他のパン屋が途方にくれている中、どこよりも早くパンを売り始めた三星堂は大繁盛し、小樽で一番のパン屋となりました。一躍成功者となった慶義。そんな彼の胸の内にも一点の曇りがありました。それは自らが招いた失敗のつけを背負わせ続けてきた、末松(多喜二の父)の一家への強い負い目でした。
(HP「小林多喜二−三星で過ごした3年間」其の三)
 
(新富町の小林パン工場)
 
 もともとの三ツ星パンは「稲穂町」にありました。だが、明治37年5月の大火で工場は「新富町」に移転したのです。

 午后一時頃学校を出てゝ、色内町を通ってみると、郵便局、三井銀行支店、越後屋などの大きな建物も何れも類焼にかゝって目もあてられぬ惨情である。それでも石造或は土蔵で屋根に瓦を用ひたのは大概残っていゐる。石造でも若し窓戸の構造の粗なるものは、悉く焼き尽された。これで昨夜の火事が如何に猛烈であったかが分かる。何しろ小樽第一目ぬきの場処であったので、焼跡至る処にポツンポツンと金庫の据って居るものも殊更に目立って気の毒に見えた。
(稲垣益穂日誌/明治37年5月9日)

 稲垣益穂の日記は、浜町の石造倉庫群や、建設費三十万円を投じた全石造建築の三井銀行がちゃんと残っていることも書きとめています。事実、この大火を契機に、小樽の街は、火防線の設置、石造建築や「うだつ」をあげた店舗建築に進み、(消防犬「ぶん公」の活躍もあって)現在の小樽独特の景観が形つくられて行くのですが。
 啄木が来樽した明治40年9月。啄木が目にしたのは、ですから、この、一度は全壊滅した中心部が復興した小樽の姿でした。同じく明治40年、
小樽で成功した伯父・小林慶義をたよって多喜二の一家が秋田・大館を出てくるのがその年の12月です。明治文学最後の星・啄木と昭和のプロレタリア文学の星・小林多喜二が、同じ小樽の空の下で暮らしていたなんて、ちょっと不思議な感じがしますね。
 なぜ、啄木の記事は「稲穂町交番付近の小林パン製造所」なのか? 小樽から出航する軍艦に食パンを卸して大儲けしていた小林パンだから、稲穂町の店舗くらい復興するのは小林慶義にはわけないことだったのだろうか。あるいは、書き間違い? とっくに経営破綻して小樽から撤退した企業なのに、今でも私たちはあの建物を惰性で「マイカル」と呼ぶように、当時の小樽人には「稲穂の小林パン」で通っていたのだろうか…などといろいろな想像をします。

 伯母のよしが、大きな財産を小樽に拵えておっぴらに、自分の故里(くに)に帰って行けるようになってからは、毎年のように故里と小樽の間を往来した。その度に成金風をふかした。昔侮蔑していたもの達が反対に、下っ腹をすってくるのを痛快に思った。(中略)
「どうもこの茶はまずい……。」
 眉をひそめながらそう云って、それから、自分の自慢に移って行った。一斤十円もする茶をのんでいるとか、工場には二十人も人を使っているとか……。
「……で、電気というものがあってね、だまっていてもパンが出来てくるんだよ。」
 そう云ったり、叉、一月に米二十俵も要るんだと自慢した。そして、伯母が村にくる度に若者を一人、二人つれもどった。
(小林多喜二「健」)

 いやー、見事な小樽の成金。