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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



四月の後志
 
 

  ▼二時に九合目
 午後二時に至り、レルヒ一行は途中何等の故障なかりしものと見え、六合目より九合目まで、僅か二時間にして攀登し、右に左に動きつゝ、右の噴火口より剣ヶ峰に向け、一条の黒影を画き動きつゝあり。同三時には頂上に達する事容易なるべし。蝦夷富士登山は斯くして大成功せり。一行の下山事務所に帰着するは六七時ならん。結果は更に報ずべし。(十七日午後二時半倶知安電話)
(小樽新聞 明治45年4月19日)

 テオドール・フォン・レルヒ。日本で初めて本格的なスキー指導をおこなった、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、明治43年(1910年)、交換将校として来日。スキー教師として来日したわけではないが、日本陸軍では八甲田山の雪中行軍で事故をおこしたばかりだったこともあり、日本陸軍はレルヒのスキー技術に注目し、その技術向上を目的として新潟県高田(現在の上越市)にある高田歩兵第58連隊や、金谷山などで指導をおこなった。
 明治45年2月には北海道の旭川第七師団へのスキー指導のため旭川市へ。4月15日、北海道でのスキー訓練の総仕上げとして羊蹄山に登るため倶知安町に到着。17日に羊蹄山登山を行い、また羊蹄山の滑走も行っている。レルヒの羊蹄登山には小樽新聞の奥谷記者も同行した。小樽新聞が19日に第一報をスクープしているのには、こんな理由による。

 その羊蹄山スキー登山について、

 『スキーの誕生』(昭和39・12)の著者中野理は、昭和十八年二月三日、新潟市で当時大佐になっていた鹿町新一郎に会った。
「十分な装備であったのにかかわらず、少数の凍傷者を出した」とあるがと、ただしたのに対し、鹿野は、
「実に、零下十五度に対する装備が悪かったんですよ。中佐が、二重のスキー手袋をはめているのに、われわれのは軍手、それで、氷をかきながら登ったんです。服装とても同様、この非難を免がれるものではありません。また各自携行した二つの握飯も氷塊となって食うこともできません。水筒も膨脹して破裂し、まったく役に立ちませんでした。ただ出発のとき、ポケットに入れた宿屋の菓子と、吹雪溜りに垂れ下った氷柱(つらら)だけが、わずかにノドを通ったに過ぎませんでした。登りに四、五時間を要したわれわれが、下山には、その二倍の時間をついやしたのでした。傷ついて、疲れきった一行が、しかもスキーやストックを失った雪の下山が、どんなにかみじめなものであったかは、皆さんにも想像がつくでしょう」
と答えたと『スキーの誕生』にのっている。
(武井静夫「レルヒ中佐のエゾ富士登山」)

 またもや八甲田山の時と同じ状況ではあったらしい。しかし、いくら知らないとはいえ、軍手に握り飯2個では無謀もいいところだろう。頂上で酒を呑まずにはいられない大町桂月もそうだけど、明治の登山は相当に荒っぽい。そんな中、下山の隊列の最後であるレルヒは、一本杖のストックを左に一歩一歩ゆっくりと降りてくる。オーストリア製のレルヒの靴にはしっかり靴底に金具が打ってあった。

 だから、レルヒの羊蹄山登山記は、軍人たちの回想や小樽新聞の記事ともニュアンスが異なっている。

 午後二時、ついにその頂上に達した。だが、この嵐と霧、眺望どころか、火口の姿すらも見極められない。一方の海から他側の海へと続く原始林も、いまいずこ。酷寒身を刺す。猶予はならじと、直ちに下山。スキーをおいた森林境界に入って、ほっと一いき。食事もかちんかちんに凍っていた。
 それからの下山。さんさんたる陽光を浴びながら、急峻を越え、原始林を通るすばらしい滑降を心ゆくまで愉しむことができた。五時三十分一行は無事ヒユッテに着いた。将校たちは非常に勇桿で、進取的であった。しかし気の毒なことには一少尉は両手両足に、二将校はそれぞれ手に、軽い凍傷をうけた。芳之助は非常に疲れ、まことに哀れであったが、森へ入ってから、やっと元気をとりもどしてしゃべり出した。私が四時間もの間、登山靴を一歩また一歩と氷の斜面に階段状に休みなく、ぷっつけ続けたため、何だか足がいつまでも唸っているかのように思われた。だが、それもやがて和いだ。計九時間を要した登行で、その間休息したのは僅か数分間にしか過ぎない。飯も立って食べた。雪嵐と登攀との苦闘! それは二、三時間、身をもって体験した凍死寸前の危機であったが、森に逃れて辛くも救われた。組合のヒュッテには、お茶も食事もあった。夕映えが雲をいただくエゾ富士の頂上近くまでも、はっきりと見せてくれた。
(テオドール・フォン・レルヒ著,中野理訳「明治日本の思い出」)

 どっちかというと、こっちに近いかな? レルヒさん