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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



三月の後志 (一)
 
 

 白く塗ったペンキがあちこち剥げ落ちて、赤錆びがでている小さなおんぼろ汽船のエンジンが、まるで息がきれたようにぶるん、と震えて停止すると、そこは波の穏かな美国の港であった。
 三月末の午後の陽光はいくらか春めいていたが、蒼黒く光る積丹の海を渡ってくる冷たい風には、まだ冬のきびしさが貼りついていた。
 笹沼勉三は、夜具とか綿入れのドテラなどの身廻品をぎっしりと詰め込んだ大きな蒲団袋を、ひきずるようにして、甲板にでた。
「とうとうやってきたな」
 肌を刺す寒風に思わず大きな図体をちぢめながら、勉三は感慨をこめてつぶやいた。
(夏堀正元「人間の岬」)

 昭和五年の三月。積丹半島・美国。鰊漁に沸く美国の浜で始まった笹沼勉三・十九歳の物語。物語は、あれよあれよという間に半島を飛び出して、時代の嵐の中を満州、上海の夜へと突っ走ってゆくのですが… (毛沢東や中共が何であったかについていくぶん距離や時間をおいて考えられる)現在の私には、ちょっと下巻の物語展開にはついてゆけません。美国の最高の素材を、なんで夏堀正元氏はこんな大味な中華料理にしてしまったものか。
 笹沼勉三以外の人間像が、まさに「人間の岬」というタイトルそのもののごとく時代を背負って描かれているのに、笹沼勉三だけが時代をすべりまくっている様子がすごく皮肉。なにか、よど号の連中のような間抜けさだ。
 人間だけではない。シベリア出兵、第一回普選、多喜二の拷問死、満州事変。美国のヤンシュウたちの物語も続くけれど、合間合間には抜け目なく、滝川事件、三原山の自殺ブーム、死のう団、東京音頭などの話題も落とさない。巧みに物語の中に織り込んでしまう。だから、もちろん、「三陸津波」も。

 統佑はちょっと訝しそうな顔をした。
「三月の三陸地方を襲った大津波で、肉親をいっぺんに亡くしてしまったんですもの、おなじ漁師仲間はわがことのように同情してますよ」
 つらそうな表情になって、たみ子はやや硬い声でいった。
 三月三日、三陸地方に大地震が起り、つづいて発生した大津波のために沿岸一帯は甚大な被害を受けた。大津波はあっというまに浜に繋留してあった漁船を片っ端から押し潰し、陸地に襲いかかってきた。
 はじめは遠くの水平線がギザギザの形で盛りあがったと思うと、海全体が立ちはだかった形で白い牙をむき、凄じい速度で押しよせ、村や人家をまるで空から叩き伏せるようにして、上陸したのである。
 この未曾有の大津波で、海沿いの低地にあった人家や田畑はすべて流され、三陸地方全体の死者は千五百三十五名にのぼり、流失家屋は三千五百戸にも達した。深い入江のある天然の漁港、陸中野田の青柳の実家も大津波の襲撃をまともに受け、年老いた母親、兄夫婦、その二入の子どもたちは、一瞬のうちに大波にさらわれてしまったという。

 そして、平成23年3月の東日本大震災。これから、多くの日本人の生き方が変わるでしょうね。青柳満男のように。

 村役場からの悲報に接した青柳満男は、ただちに美国を発って故郷の漁村にむかった。だが、遺体はなかなかみつからず、六日目になって母親と兄嫁の変り果てた姿が近くの海上で発見されたものの、兄と二人の子どもたちの遺体はついにあがらなかったのである。
 青柳満男は村が主催となっておこなった合同葬儀が終ると、母と兄嫁の遺骨を古い寺に納めた。それから後事を役場に頼んで二週間後には美国に戻ってきて、猫の手も借りたいニシン漁に取り組んだのであった。
 しばらくのあいだ青柳は別人のように無口になって、暗い顔をしていた。もともと快活な雰囲気の底に、どこか孤影をひきずっているところのある入間ではあるけれど、いっぺんに肉親をことごとく失った悲しみは、その孤影にひとを近づけないきびしさをもたらしていた。その悲しみをまぎらわすのが、ニシン場の忙しさであった。青柳はへとへとになるまで身体を動かして、すこしでも悲しみを忘れようとしている様子であった。
 
 

 
 



三月の後志 (二)
 
 

 網を手繰る起し船では、若い漁師たちが力のかぎりニシンの群を攻めこんでいく。と不意に、潮風に鍛えぬかれた素晴しくよく透る声で、森島が威勢のいい「キリ声」をかけた。
 どっとーおこー
 どっとこせーいのこら エー
 よいやーさー アラ ヨーイヤサー
 やさの よーいさーあ エーエエ
 ………………
 ほーらあーえーえ
 このあみおこせぱ やーあ えーい
   ヤートコセー ヨーイヤサホーラァ
 せんりょうまんりょうの かねじゃもの
 よーいとーなあ ホーラー エンヤ
   アラアラー ドォーコイ ヨーイトーコ ヨーイトコナー
(夏堀正元「人間の岬」)

 美国の浜の海面に森島守蔵の「キリ声」が響きわたる。船頭・森島は、いかにしてこの美国の浜へ流れついたのか。

 森島はいま、自分が怖ろしくバカなことをしようとしていることを知っていた。四月はじめとはいえ、東シペリアの雪はまだ深く、夜の寒さはきびしかった。全身を殴られ、蹴とばされて傷ついた身体で、そのうえ食糧もなければ、シペリアの大地でゆき倒れてしまうことは、眼にみえていた。しかし、彼は軍隊を捨てよう、栄えある脱走兵になろうという、やみがたい衝動にかられていた。
<……いったい、なんのためのシベリア出兵だったのか。日本はどんな得をしたというのだろうか。こんな地の涯のようなところにまできて、ロシアの百姓を殺すことに、どんな意味があるんだ?>

 森島一等兵。意味なくロシア人捕虜を軍刀で切れと命じた時任少尉に逆らったため、隊内で激しいリンチに遭う。脱走を決意。あてもなく北上する黒龍江(アムール河)沿いの雪原。

 しばらくいったところで、彼は疎林のなかに人家の暗い灯をみつけた。近づいていくと、それは土と木で造られた粗末な家であった。(中略)
「おれ、日本の兵隊、逃げてきた、降参する……」
 と森島はいったが、相手にはその意味が伝わらない。
 顎髭の男は家の奥にむかって叫ぶと、応えがあって、森島は室内に入れられた。そこにはストーヴがあって薪が焚かれており、蘇生するような暖かさが森島を包んだ。(中略) あとでわかったことだが、彼らはオロッコ人の家族であった。オロッコ人ならぱ、森島が少年時代に働きにいった樺太の恵須取(エストル)の漁場にもいたし、北海道の網走地方にも住んでいた。

 森島守蔵はその一族とともに漁をしながらアムール河を小舟でくだり、キジ湖という小さな湖に入る。オロッコ人たちは、森島を満人が所有する漁船に潜りこませてくれた。南下する船でゆっくりと漁をしながら、樺太の国境線にある安別(あんべつ)に六月の深夜、ひっそりと上陸。日本人漁師の家の物干し場から、漁師の服をかっぱらって着替え、オロッコ人の服を砂浜を掘って埋め、その場を立ち去った。
 その後、彼は約五カ月間にわたって樺太の漁場を転々と歩き、十一月はじめに便船を得て北海道に渡り、熊碓の杉野目英吉というニシン場の親方の許に身を寄せる。この親方は、森島が脱走兵となるきっかけとなったハバロフスクのあのロシア人虐殺未遂事件で怒り狂った時任少尉の軍刀から森島を守ってくれた杉野目軍曹の兄であった。軍曹はふだんから森島に目をかけてくれていて、「北海道に帰ったら、兄貴のニシン場を手伝ってくれないか」といわれていたのである。かくして、美国の浜へ。

 夏堀正元のテクニシャンぶりは、当然、こういう描写にも顕れます。脱走兵として森島が彷徨っていたアムール河沿いの一年間。

 このときはすでに「尼港事件」が起った直後であったが、森島は知るよしもなかった。「尼港事件」というのは北樺太の対岸にあるニコライエフスクで起った不幸な事件であった。発端はこの年の二月、尼港にいた日本軍守備隊と居留者あわせて七百人が、トリアピーチンが率いる四千のパルチザンに包囲されたことにある。孤立した日本軍は休戦を結んだが、三月十二日に休戦を破ってパルチザンを攻撃し、指揮官のトリアピーチンも負傷した。
 だが、この戦闘ではやがて日本軍は圧倒的なパルチザンの猛反撃に敗れて降伏、生き残った日本軍と居留民百二十二人は投獄された。五月二十四日になって、日本軍の救援隊が尼港にむかったが、パルチザンは投獄されていた反革命派のロシア人と一緒に日本人捕虜をみな殺しにしたのち、尼港を焼き払って撤退した。

 すかさず、「尼港事件」と重ねるあたりが、あざといというか、芸達者というか。

 「尼港事件」については、毎年三月が来る度になにか書きたいと願ってはいるのですが、たとえば石塚経二「アムールのささやき」のような本を読んでしまうと、そのあまりの凄惨さに声もないという状態が続いています。まだまだ書けそうもない。