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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



二月の小樽 (一)
 
 

 「これ、手紙です。返事、できたら卓也の奴に出して下さい。俺はこれで……さようなら、由紀さん。」
 「待って。」
 急いで立ち去ろうとした私の背に、懇願するような由紀の声が投げかけられた。
 「これじゃあんまりよ。いえ、そうじゃなくて……ごめんなさい。そうじゃないの。あの、明日もう一度会っていただけません。御返事はあなたから伝えていただきたいんです。」
 「俺、明日は小樽に行くんです。夕方には帰ります。」
 「もしよかったら……厚かましいんですけど……御一緒させて下さい。明日はあたしも休みだし、お邪魔でなかったら。」
(外岡秀俊「北帰行」)

 啄木の漂泊の跡をたどる二宮の旅も終盤。明日の小樽には、中学の時秘かに想いを抱いていた由紀が連れてってくれという。なぜ、二宮は啄木の跡を追っているのか。

 北海道のU市という炭鉱町の中学校を卒業すると同時に、私は集団就職の勧誘に応じて自動車の部品を製造する下町の工場で働くために、津軽の海を渡った。たしか、明治百年の記念式典が麗々しく執り行われた年だったように思う。(中略)
 北海道にいた頃、私はほとんど本というものを手にしなかった。その、ただでさえ乏しい読書量を補おうとして始めた読書も、やはり長続きはしなかった。性急に理解しようと焦ると、本を一冊全部読むことはできず、また読んだとしても何も理解していなかった。逆にじっくり腰を落ち着けて読むと、薄い本でさえ数ヶ月も時間を費さねばならなかった。それはもちろん、私の理解力が著しく低いためもあったが、やはり基本となる枠組がないために、吸収した知識も雑然とした集積にしかならず、時とともに淡雪のように消え去っていったからだろうと思う。(中略)
 そんなとき、私は初めて啄木の歌集に出会ったのだった。修学旅行で函館を訪れたときに買い求めた『一握の砂』を、私は上京するときに鞄の底に詰めておいた。

 集団就職から五年。都会の孤独の中、時間も経済的な余裕もない青年・二宮にとって、休日に近くの区立図書館に出かけることが唯一の学校だった。貧るようにして読む啄木の本。啄木は彼の唯一の教師であり、対話するたったひとりの友だったのだ。
 職場でのありふれた諍い。二宮は、その諍いで、左手の三本の指と職を失ってしまう。彼は「北帰行」を決めた。

 白くほうけた空のひろがる冬の浜辺に沿って、隧道が幾つも畳み込むように連なるその道を、由紀と私は歩き続けた。海岸の段丘を形造る巌の屏風の裾を、縫うようにくねくねと延ぴる道は、大型トラックやダンプが猛スピードで走り抜けるので、危うく轢かれそうになることも屡々だった。小樽の市街を歩いて啄木の一家が暮らしたという花園町界隈を散歩した後、小樽港の北端にある手宮の洞窟を見るために、私たちは歩いていたのだった。海を見たいという由紀の言葉に従って手宮を行き過ぎ、何もない国道でバスを降り立ってから、かれこれ一時間は歩いていただろうか。
 「ね、下に降りてみましょう。」

 今、私は小説「北帰行」の中から意図的に二宮と由紀のドラマ的な部分を抜き出して引用しているのですが、実際の「北帰行」はかなり趣がちがいます。このドラマ展開部分に重なるように、

 窓の外に広がる雪景色を眺めながら、私は卓也への手紙に引用した啄木の言葉を思い出していた。「明日の考察! これ実に我々が今日に於て為すべき唯一である、さうして又総てゞある。」 『時代閉塞の現状』に記されたこの言葉は、冷静な分析と思索を放棄した挙句に逃げ道として用いられる安直なスローガンではない。その言葉に煽動の響きがあるとしたら、次の一瞬には行為に転化するという言葉のぎりぎりの限界線上に、啄木が立っているからなのだろう。

といった、二宮自身の思索(啄木との対話)部分が折り重なってくるのです。すごく難解。啄木に関する知識がないと読みこなせません。事実、啄木の知識がなかった昔は、なにか三島由紀夫と同じで、気どった文章に思えて苦手でしたけれどね。東大って、こんな奴ばっかり…とか。

 外岡秀俊(そとおか・ひでとし)。1953年、札幌市生まれ。札幌南高、東京大学法学部卒業。1976年、在学中に小説「北帰行」で文藝賞を受賞するが、その後小説を書くことはなく、1977年卒業後、朝日新聞社入社。学芸部、社会部記者、ニューヨーク、ロンドン特派員、論説委員をへてヨーロッパ総局長。東京本社編集局長。

 今「北帰行」を読み返すと、若い頃とはまったく逆の意味で、この人に小説家としての限界を感じます。これ一冊で止めたのは正解だったかもね。「夕張」、「集団就職」…、つまるところ、通俗。朝日新聞と同じくらい、通俗。「手宮」から「祝津」へ。これも、通俗だ。いかにも、南高の優等生が知っていそうな小樽。啄木はそんな小樽に行ってはいませんよ。ステイションとツルゲネフの往復が啄木の小樽だったですよ。