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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



一月の札幌 (一)
 
 

 昭和二十七年一月二十一日の午後七時半ごろのことである。札幌市内を蔽った雪は、暮れたぱかりの夜の中に黒く吸い込まれていた。
(松本清張「日本の黒い霧」)

 昭和27年は私が生まれた年。敗戦から七年。朝鮮戦争。この時、松本清張、43歳。前年、「西郷札」が直木賞候補に。さらにこの27年に入って、「或る『小倉日記』伝」を三田文学に発表し、本格的なプロの作家生活に入って行く。作家としては遅いデビューだったそんな頃、白鳥事件は起こった。

 南六条の西十六丁目辺りを二台の自転車が走っていたが、突然、銃声が聞えると、その一台は雪の上に倒れた。もう一台の自転車はそのまま、三百メートルくらい進んで、やがて闇の中に消えた。折からラジオは「三つの歌」を放送していた。
 この通りは通行人が疎(まばら)で、凍てついた道の上を暗い街灯がぽつぽつとついているだけである。
 通行人の報らせで、すぐに警察の車が走って来て、警官が撃たれた男を抱き起して見て愕いた。その顔は札幌市中央警察署の警備課長白烏一雄警部であった。血だらけの死体の横には、乗っていた自転車が横仆しになっていた。
(同書より)

 いつもこの下りを読むと、不思議な気持ちになる。自転車?一月の札幌で? それも、二台の自転車の銃撃戦?

 よほどの金持ちでもなければ自動車なんか持てなかった昭和27年、冬でも自転車に乗る奴もいたのだろうか…(警官なら、使うのかな?)

 「冬の自転車」が登場する作品を、十年に一回くらいの割で発見します。

 『ああ、ここの麦畑もすつかり雪の平野になりましたのね』
 門馬は自転車をとめて、国子のトランクのぐらつくのをなほした。細引をしめなほしてゐると、門馬は寒風に吹きさらされてゐる自分の頬に熱いものが一滴こぼれ落ちた。白いえぞ富士がまるで夢のやうに灰青色の空に浮き出てゐる。
(林芙美子「田園日記」)

 この時は、まだ松本清張の「日本の黒い霧」は読んでいません。だから、十二月の倶知安に自転車乗ってる馬鹿なんかいるかよ…まったく内地の作家はおもしろい北海道を描くもんだな…と笑っていたものだけど。もしかしたら、無知はこっちなのだろうか。

 私はその頃、札幌市内の中学一年生であった。この事件を報じる新聞記事には、白雪に血が染まっているといった見出しがついていたように思う。私の通っていた中学校の通学区域もこの現場とそれほど遠くはなかった。中学生であったから、私には事件の背景など知る由もないが、現在に至るもその新聞記事の内容が気にかかっている。
(保阪正康「松本清張と昭和史」)

 保阪さんは説得力に欠ける松本清張推理の典型としてこの「白鳥事件」に言及はしているけれど、別段、この「冬の自転車」の怪については何もふれていませんね。札幌の人でさえこうなんだから、やはり、これはありなのだろうか。知らないことが多い。(この白鳥事件の日、私はまだ母親のお腹の中にいたのが残念です)