一月の小樽 |
あと一学期で卒業という年の冬休み、北海道小樽の北門日報社に主筆として招かれ、先に行っていた父のあとを追って、私は母と共に小樽へ行きました。今とちがって、そのころは、まず青森まで汽車で一晩がかり、津軽海峡を四時間も船、また函館から汽車にゆられなければ小樽へは着かなかったのです。しかも私たちが行ったときは、大雪で、途中、列車が立往生して、何時間もふるえている始末でした。 (岡田嘉子「悔いなき命を」) 冬の小樽に、ようこそ。 どうしても岡田嘉子といえば、話は、昭和13年1月3日、杉本良吉との「ダスビターニャ」、ソ連への越境亡命が先に来てしまう。そこから逆算する形で女優・岡田嘉子の経歴が語られることを時々かわいそうに思う。ちょっと小林多喜二に似ていますね。どうしても拷問死から逆算して彼の仕事が語られてしまうようなところが。 でも、自伝を読んだ限りでは、小樽で過ごした青春期の思い出には何のけれん味もない。図書館に通って本を読むのが好きな十六歳の娘さんがそこに描かれている。 女子美を出てから、あたくしは北海道の小樽に行きました。そのときは父が小樽の「北門日報」って新聞の主筆になってたものですから。そうして、遊んでてもしようがないから、そこの新聞記者になりました。もちろん婦人記者なんてまだ珍しい時代ですけど、父の社にはあたくしの先輩がもう一人いらっしゃいましてね、そのかたが、北海道では初めての婦人記者だったようです。父はやっぱり新しい考えを持ってましたから、女性を採用したんじゃないでしょうか。 でも、あたくしは取材記事を父の前に持って行っては、みんなの前でよく大きな声で怒られました。.「学校の作文とは違うんだぞ!」って。自分の子供だから人前ではよけい厳しくする、父ってそういう人でした。 (岡田嘉子「ルパシカを着て生まれてきた私」) 元禄袖に肩上げのついた着物。大きなリボンをつけた十六歳の北門日報記者が取材に。 偉そうに名刺出したりして。学校回りをやらされて、教育方針を聞きに行くと、校長先生がびっくりした顔で名刺とあたくしの格好を見比べていたことを覚えています。 (岡田嘉子「ルパシカを着て生まれてきた私」) そして、幸せそうな大正時代の家族。 「まあ、そう言えば、嘉子も絵よりはそっちの方が望みがあるかも知れない」 と言い出すようになりました。母はもちろん、大反対です。 「いやあねえ、女優だなんて……」 「だから、母さまは古いのよ。これからは女優だって、立派な芸術家ですからね」 「だってさ……」 「いやんなっちゃうわ。母さまなんて物が分からないんだから。外国にはね、女優だって大学で講義する人もいるし、自分で脚本を書く人だっているのよ」 「そりゃ、外国じゃそうかも知れないけど、日本じゃまだまだそんなに位置が向上していないもの。あんたばっかり偉いつもりでも、はたが認めてくれなきゃしようがないじゃないの」 [だったら、あたしの力で向上させてみせるわ」 「たいした意気込みねえ。それが本当に実現できればいいけれど」 「やってみるわ。あたしは一生、舞台に忠実に仕えるわ」 「ほんとうだわね。その言葉と決心に間違いはありませんね」 「大丈夫よ」 「母さんはね、あんたに反対するんじゃないのよ。だけど、もし失敗したら取りかえしがつかないんだからね。これまで苦労してあんたを育て上げてきた、父さまや母さまの苦労を水の泡にしてほしくないのよ」 そういう母の眼には涙が光っていました。そのとき、黙って母子の話を聞いていた父が、 「まあ、嘉子があんなに言うんだから、やらせてみよう。おれたちは嘉子を嫁にやる気なんか毛頭ないんだ。女優だって、そんなに心配することもないだろう。やらせてみるさ」 ふだんはとても頑固なかわり、ひとたび話が分かると、また、とてもよく理解してくれる父を、私はつくづく頼もしいと思いました。 (岡田嘉子「悔いなき命を」) 月日は経って、昭和59年。82歳の岡田嘉子はソ連に戻る前にお忍びで小樽を訪れ、北海道新聞の記者にこう語っています。 「(長いソ連での生活で)雪解けの季節になると決まって小樽を思い出しました。硬かった雪がゆるむと、木の根あたりに手のひらくらいの穴が開き、のぞくと土が紫色に見えるのです。土から湯気さえ上っています。顔を近づけると春のにおいが立ち昇ってくるのがわかります。遠い昔、小樽でもこれと同じような情景に出合い、同じように夢中で春のにおいを胸いっぱいに吸いこんだことをよく思い出しました。私は子供のころから本の虫でしたが、とりわけロシア文学が好きで、もともとロシアにあこがれを抱いていました。国境を越えてロシアに渡ったのには演劇上の、あるいは恋愛問題などいろいろあったわけですが、この底には小樽時代に培われた北国への特別の思いがあったのではないかと、しみじみと考えるのです」 (平澤是曠「越境」) |