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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十二月の余市
 
 

 私は冬になるといつも憂鬱になる。理由はよくわからないのだが、特に冬の都会の寒々しい雑踏の中にいるのが嫌いだった。私のように雑誌の執筆を中心に原稿を書いていると、十二月の中旬が過ぎたあたりで大体その年の仕事のケリがつく。新年号などの原稿仕事は十一月の始め頃に締め切りとなり、そのあと翌年のものをいくつか書けばその年の仕事は終るからだ。
 だから私はその頃になると、一年で一番暇な時期になる。しかしどうやら仕事と感覚のあいだに微妙ななタイムラグがあるらしく、暇になっても気分的にはなんだか鬱屈していることが多いのだ。そこで親しい友人を誘ってキャンプの旅などに出たりする。みんな忙しい時期だから私の誘いに同行するのは私と同じような仕事をしているフリーの友人が多い。
「今年はどうするんだ?」
(椎名誠「かえっていく場所」)

 今年は(悪いけど)キャンプなし。アメリカで暮らしている二人の子どもが今年は暮れの時期に一時帰国することになったから。久しぶりに、家族四人ですごしたい。

 いろんないまわしい事件があって世の中が騒然としていた二〇〇一年は、私自身も落ち着かない日々を過ごしていたので、一年の間とうとう一度もその山の上の家に行かなかった。
 家族が一堂に顔を合わせるのは一年ぶりぐらいだろうか。その一年前に顔を合わせた頃は妻が体の具合を悪くしていた時だったので、家族揃って食事をするということもあまり無かった。その妻が漸く元気になり、昔の状態に戻ってきた。暮れから新年を北海道で過ごそう、と言ったのも妻のほうだったのだ。
(同書より)

 千歳から小樽までは息子が車の運転。椎名誠は助手席で息子の話をぼんやり聞いている。小樽で高速道路を下り、「海猫屋」へ。

 彼の最初の店はいかにも小樽的な頑丈なレンガの壁に囲まれた倉庫を改造したもので、それなりに落ち着いた風情があって好きな店だった。そこには私の息子が小学生だった頃に一度連れていったことがあり、増山さんはそのことをまだ覚えていてくれた。
「あの時は冷しラーメンが好きだっていうんで、ホレ、こんな大きな洗面器ぐらいの皿に入った冷しラーメンを作ってやったんだよなあ」
 増山さんは両手でそのくらいの輪をつくり、両目まで大きく見開きながら息子に言った。
「ええ、覚えています。食っても食っても無くならないんでうれしかったです」
(同書より)

 「海猫屋」。そして、余市への途中、「新岡商店」でヒラメとシャコ、スーパー「シガ」で籠城用の生活物資を買って、山の上の別荘へ。運転は椎名誠にかわる。

 私は家族が揃って食事を一緒にできる時間などそれぞれの人生の中でほんの僅かしかない、ということに数年前に気がつき、それをどこかのエッセイに書いた記憶がある。父が早くに死んでしまった私自身の家がそうであったし、妻にいたっては、妻が生まれてすぐに彼女の父親は大陸に出征し、そのまま帰ってこなかったのだから、妻の家族にはその一瞬の安らぎもなかったのだ。
 話はいつの問にかニューヨークのテロ事件の頃のことになっていた。崩壊したあのビルから三キロほどのところに住んでいる娘とは事件の時に丸一日連絡がとれなかった。よく話を聞いてみるとなんらかの形であの事件に巻き込まれた彼らの知人の話が出てきた。ひとしきりその話がすんだあと、事件の犠牲者の鎮魂のために私たちは黙ってまた静かに杯をあげた。
(同書より)

 この時の椎名誠、58歳。

 私が今58歳だから言うのではないが… この、椎名誠の沈んだ感情がなにか切ない。「国分寺書店のオババ」から、この余市の「かえっていく場所」まで、ほんとにひと息。凡夫の人生。なんて、こんなにもあっという間の夢なのだろうか。そう思う。