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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十二月の小樽 (一)
 
 

 昭和5年、大阪道頓堀の島之内警察署の取調室。

古橋 いやあ、すぱらしい伯父さんがいたものだねえ。
多喜二 (「ン?」)……。
古橋 小樽署からの報告書、そしてその他の資料を突き合わせてみると、この男の伯父さんは、わざわざアメリカから取り寄せたトラック自動車で、パンを配達させていたらしい。道頓堀や心斎橋あたりの一流のパン屋さんでさえ、まだ荷車やリアカーで配達しているというのに、北の国の小樽で、もう自動車ですよ。この伯父さん、たいした事業家なんだねえ。
(井上ひさし「組曲虐殺」)

 多喜二は黙秘をつづけ、山本は古橋の真意をはかりかねてポカンとしている。

古橋 この伯父さんのほんとうにすごいところは、秋田の片田舎を食い詰めて、内地から見捨てられていた弟さん一家を、つまりこの男の一家を、小樽へ呼び寄せてあげたってこと。なかなかできることじゃありませんね。
多喜二 ……。
古橋 この男は小学校の六年間無欠席で、しかもずば抜けて成績がよかった。丈夫なお利口さんてわけだね。そこを見込んで伯父さんは、この男を引き取った上、小樽商業と小樽高商で勉強させてやった。こりゃ美談ですわ。
多喜二 (ちょっと違うが、反応しない)……。
(同書より)

 特高刑事・古橋の言ったとおり、多喜二の一家が小樽の叔父を頼って移住してきたのは明治四十年の十二月。この時、多喜二、四歳。(蛇足ですが… 明治四十年ですから、この時、啄木は日報社を辞めた直後。小樽新聞への打診などで、まだ小樽にくずくずとどまっています。一瞬とはいえ、啄木と多喜二が同じ町にいた時間があったのですね)

古橋 さて、小樽高商を出て、北海道拓殖銀行小樽支店に勤めることになったこの男は、あるとき、市内の小料理屋で働いていた五つ年下の、田口瀧子という酌婦に恋をしました。酌婦というのは、客の求めがあれぱ体を開く女のことですが、この男は、瀧子が背負っていた借金五百円をきれいに払って、自宅に住まわせることにしました。この五百円も、愛する甥っ子のためならばと、伯父さんがこころよくポンと……、
多喜二 (ついに)ちがう。
古橋 (鋭く)どこが。
多喜二 伯父が愛しているのはソロバンだけだ! 瀧子の借金は銀行の冬のボーナスと、友だちから借りたお金で払って、いまも月賦で返している。出すものは、吐く息、オシッコさえ惜しいが口癖の、あの守銭奴の伯父がそんなお金を出すものか。(中略) つまり伯父は、万事ソロバンづくの冷徹な打算家なんだ。(気づいて)……あ。
古橋 だからこそ財を成すことができたんじゃないのかな。ありがとう。小林多喜二くん。
多喜二 (ガックリとなる)……。
(同書より)

 あーあ、ついにしゃべってしまった…(善人・多喜二の面目躍如)

 2010年の今年、いちばん心にずんと来た事件は、井上ひさしの死でした。肺ガン。享年75歳。葬儀は近親者のみで。
 今でも、一流と二流の物書きの差は、心に「青葉繁れる」があるかないかの差だと思っている。こまつ座の芝居にカスはひとつもなかった。「イーハトーブの劇列車」で賢治役をやったあの役者。「きらめく星座」の夏木マリ。みんな、私の心は感動しているはずなのだが、でも、それをあからさまに口に出さないなにかが私の中にはある。
 なんだろう。井上ひさしが死んだ四月、日本の首相・鳩山由紀夫は「最低でも県外」などとまだ言っていた。それができなくて、かりゆしを着て、沖縄へ。あのバカさ加減。本質的なところで人間に無関心な感覚を、若い時から井上ひさしや大江健三郎に感じて来たのだと思う。私もまた、若い時から持っている愚かさ。凡人。それをどうしても肯定的に喜ぶことができなかったから、ここまで生き長らえてしまったのかもしれない。