Welcome to SWAN 2001 Homepage


 
 
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十一月の小樽 (一)
 
 

 十一月の半ば過ぎると、もう北海道には雪が降る。(私は北海道にいる。) 乾いた、細かい、ギリギリと寒い雪だ。――チヤツプリンの「黄金狂時代(ゴールド・ラツシユ)」を見た人は、あのアラスカの大吹雪を思い出すことが出来る、あれとそのまゝが北海道の冬である。北海道へ「出稼」に来た人達は冬にかると、「内地」の正月に間に合うように帰つて行く。しかし帰ろうにも、帰れない人達は、北海道で「越年(おつねん)」しなければならなくなるわけである。冬になると、北海道の奥地にいる労働者は島流しにされた俊寛のように、せめて内地の陸の見えるところへまでゞも行きたいと、海のある小樽、函館へ出てくるのだ。
(小林多喜二/北海道の「俊寛」)

 (私は北海道にいる。) どうして、多喜二の書くものには、こういう不思議な一言が入るのだろう。「防雪林」のエビタフ「北海道に捧ぐ」も、かなり違和感あった。こういう多喜二の「北海道」、何の意味があるのだろう?

 夏の間彼等は棒頭にたゝきのめされながら「北海道拓殖のために!」山を崩した。熊のいる原始林を伐り開いて鉄道を敷設した。――だが、雪が降ると、それ等の仕事が出来なくなる。彼等は用がなくなるのだ。そうなると、汽車賃もくれないで、オツぽり出される。小樽や函館へ出てくるのはこういう人達なのだ。
(同書より)

 その、「北海道拓殖」銀行の行員だった小林多喜二。「北海道の『俊寛』」は短い文章なのに、最後もやっぱり「北海道」。

 これはしかしこれだけではない。冬近くなつて、奥地から続々と「俊寛」が流れ込んでくると、「友喰い」が始まるのだ。小樽や函館にいる自由労働者は、この俊寛達を敵よりもひどくにめつける。冬になつて仕事が減る。そこへもつてきて、こやつらは、そうでなくても少ない分前を、更に横取りしようとする。この「友喰い」は労働者を雇わなければならない「資本家」を喜ばせる。
――北海道の冬は暗いのだ。
(同書より)

 ――北海道の冬は暗いのだ。

 誰が、誰に、何を言ってるんだ、こいつは。