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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十一月の後志
 
 

 東京は冬も過ぎ、梅が咲き椿が咲くようになつて太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り拡げて吸い込んでいる頃だつたとはいえ、北海道はまだ雪に埋もれて、その日も朝から雪にふりつめられていた。漁場の漁夫たちは仕事も早じまいに、私も漁場の早い夕食をすますと床屋の川端のところへ散髪に出かけていつた。そういう日の床屋は私もそうであつたろうし、皆ムツと魚くさい臭いをむれたててストーブを漁夫たちはとり巻いていた。
 そこに乱雑にちらばつてあつた新聞の一枚を手にとつた私は、小鳥の巣のカツトの下に「生れ出る悩み」有島武郎とある創作のでていた東日を見出した。なつかしいその人の作をひそかにくり返し読んでいたが、その特異な文体と書き出しとから、きつと旅行記のようなものでも発表するのかな、とひとり決めにそう決めこんでいた。その夕、川端正吉のところへ散髪にいかなかつたらおそらくずうつと後になるまで、その創作が発表されているのも知らずにいたかも知れない。そして二回三回とつづけられての後までも、その創作の主人公として私が取扱われていこうなどとは気がつかずにいた。
(木田金次郎/「生れ出づる悩み」の頃)

 「どうも君のことを書いていくようだよ」。友人の佐藤彌十郎から教えられるまで、なにか有島の旅行記のようなものだろうと思っていたというのが、いかにも木田金次郎。あの床屋で見た新聞小説は俺のことだったのか…

 有島武郎「生れ出づる悩み」の二人、有島と木田金次郎が出会ってから今年で百年。私の勤めている図書館でも、先月、「生れ出づる悩み」文学散歩をやったばかりです。京極読書新聞・第18号。1p 2p 3p 4p

 「生れ出づる悩み」は、以前にもとりあげたことがありますので、ここでは、木田金次郎の「『生れ出づる悩み』と私」(北海道新聞社,1994.8)からめずらしい文章をご紹介したいと思います。

 明治の末、私が十七、八のころでした。札幌の白石にある豊平川べりのお宅にはじめて有島武郎さんをおたずねしたのは。見てもらおうとたくさん持ちこんだ私の絵を前にして、有島さんは奥さんの安子さんを呼び、いっしょにていねいに一枚一枚に目を通してくれたのですが、思えばそのとき身重だった奥さんのおなかの中にいたのが、長男の行光君、つまりいまの森雅之氏だったのです。これが私と森雅之氏との初対面(?)でした。
(木田金次郎/「森稚之氏」)

 そして、二人の二度目の邂逅。場所は狩太(現ニセコ町)の有島農場です。

 すでに東京に移っていた有島さんが叢文閣から作品集を出し、初版の印税二千円を持って、北海道に遊びに来られたのは大正八年のことだったでしょうか。三人の子供さんもいっしょでした。行光君はまだ成城学園の小学生でしたが、正直な話、暗くてじめじめした感じの子供だったのを覚えています。
 ちょうど狩太に滞在中に私は有島さんをたずねて行きました。弟の二人、行敏君と行三君は寂しがらずに元気に遊んでいましたが、行光君は有島さんのそばで黙ってすわっているだけです。顔色も悪く、目がギョロリとして、いかにも神経質にみえる無口の少年でした。曇っていて陰うつなその日の天気が、余計に行光君をそう見せたのかもしれません。私はそのときみなさんを岩内にお招きしようと思っていたところでした。有島さんも大いに乗り気だったのですが、行光君一人がメソメソし出して東京を恋しがり、とうとう有島さんも岩内行きを断念してしまいました。
(同書より)

 セン病質の行光。有島は、三人の中でも、行光を一番心配し、また一番かわいがっているように見えたと木田は書いています。行光を成城学園に入れたのも、小学校から中学、高校と、少しでも受験の苦しみからまぬかれるようにという有島の心づかいだったようです。

 事実中学生になったころからの行光君は、有島さんの自由放任主義の下で見違えるように元気になり、のびのびと才気をふるっていたようです。テニスを楽しむはきはきした少年に育ち、持ち前の感受性の強さとあわせて、このころからいまの森雅之氏の素地が作られ始めたのではないかと思います。(中略) あの神経質なメソメソ坊やが図太くりっぱな俳優に成長したんですから、人間わからないもんだと思います。
(同書より)

 「人間わからないもんだと思います」は、よかったね。森雅之。「羅生門」、「悪い奴ほどよく眠る」か…