Welcome to SWAN 2001 Homepage


 
 
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十月の札幌
 
 

 とんだことになりまして……私たちには何が何やらさっぱり判りません。馬の口綱をとりながら若い者が兵部を見上げた。
 それで、ほとけは?と兵部が聞いた。
 御案内致します、と若者が言い、がさごそと籔の中にはいっていった。
 ひくい山の背が見えた。
 流れの音がきこえた。
 ほとけは、二体ならんでむしろをかけてあった。兵部は、そっとむしろをめくってみた。うめの骸であった。入水したときいていたが髪が濡れ、白無垢の肌衣も水を吸っていた。
 「代理さま、御覧下さい」さきほどの男が囁いた。
 胸元にきちんとあわせた掌に赤い珠数の球が巻きついている。兵部もこれはと思った。
 「はい、あれはななかまどと言う木の実で御座います。珠数など、いくつも持っていなさるものを何んで御座いましょう。数えてみましたら珠数の球は百と八つありました。何もかも判って居なさって――何故で御座いましょう。」
 いや儂にも判らん、兵部は答えた。ほんとうに兵部は判らなかった。判らないと.言えばもうひとつ、うめは長流川に沈んでいたといい、浄心は山の立木で首を吊っていたと言う。
 場所が近いといっても離れ離れに死んでいる。
 これが何故、心中なのだ。
(従二一郎「本願寺街道」)

 中山峠。北海道に峠は数多くあれど、本当の意味で「峠」と呼べるものは、この中山峠から上のランク。狩勝とか日勝峠だけでしょう。稲穂峠など、ただの坂道にすぎません。
 本願寺道路というのは、平たくいえば、この中山峠を越える国道230号。当時の有珠から札幌に至る約40キロの道程でした。その峠越えのピーク地点に、この本願寺道路の開祖・現如上人のレリーフが建っています。

 現如上人大谷光蛍上人は、東本願寺第二十一世厳如上人の法嗣、明治三年二月頼命を蒙って京都を出発、壱百余名の部下をひきいて本道に渡り、新道切開、教化普及移民奨励の三大目的を達成、紛骨砕心努められた、今回北門開拓百年を迎うるに当り、上人十九歳の英姿を刻み、永く遺徳を顕彰景仰するものである。           昭和四十二年十月八日
(現如上人像頌徳文)

 北海道においては、道南の一部を除いては昔から道路というものは全くありませんでした。江戸幕府は、幕末になっても、国防上の見地から漁業関係者に命じて海岸の難所にだけ道路をつくらせた程度です。この政策が大きく転換するのは、明治新政府から。北方から外国が侵入することを憂慮した新政府は、明治元年、北海道を早急に開発するという基本方針を決定。
 しかし、新政府には、札幌までの新道開削をするだけの財源がない。そこで、東本願寺に白羽の矢が立ったのです。東本願寺は、十九歳の現如新門主を総責任者として抜擢。一行は明治三年二月京都を出発。通過する東海、東山、北陸、奥羽などの門徒に寄付を依頼し工事資金を集めました。京都より引率した僧俗百数十名ほか、仙台支藩の武士や多数の人々の協力を得て、明治四年、本願寺道路は完成します。

 そんな新道完成の朝につたえられたうめと浄心の悲しい死。

 「うめは、身ごもっていたとの事で御座います。」
 読経の声で、はっきりと兵部はききとれず怪訝な面持でいると、専らの噂で御座います、と男は言った。
 「浄心の児か、親は浄心だと申すか?」
 「いや判りません、噂で御座いますから。」
 なむあみだぷ、なむあみだぶ――兵部は六回繰り返した。それが宗祖の教えであった。
(従二一郎「本願寺街道」)