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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十月の京極
 
 

 大雪山を踏破し、無事旭川へ降りてきた大町桂月一行。

 その翌朝、桂月先生無事生還歓迎会を開きたいからと新聞社の招待を受け、旭川の一流料亭へ招かれた。料亭前の大きな立看板には墨痕鮮やかに、「無事生還歓迎会」と書いてあった。新聞を売らんがため? 舞台裏では計画図に当たったと北叟笑んで居た連中も居たと思うが、その罪滅ぼしの招宴としては余りにも安過ぎはしないだろうか。
 久しく叔父とも逢って居なかったので色々話もしたかったのだが、昼間からドンチャン騒ぎでは話も出来相にない。そこで帰路は必ず脇方に立ち寄るという確約を得たので、出張中でもあり、何時迄も滞在は出来ないので、一先ず先に帰って待つ事にした。
(鉄石山人「脇方の思い出」)

 帰った先は東倶知安村(現京極町)脇方。「鉄石山人」こと、大町政利は桂月の甥にあたります。当時、日鉄鉱業北海道工業所の所長をしていました。というわけで、大町桂月が脇方を訪れたのが、大正十年十月二十三日。頼まれるままに、ここでも桂月は詩を短冊に残します。

 独向白雲深処遊
 丹楓黄桂満山秋
 水枯却喜不長舌
 賎々渓聲落枕頭
 東倶知安鉄山にて
        桂月

 京極に来た時からこの逸話は知っていました。けれど、「大町桂月」といわれても何かの紀行文アンソロジーに出てくる明治の文学者という以外のことは知らないし、その漢詩文が「独向白雲深処遊…」ですからね。到底、無教養の私の歯の立つところではない。長い間、この「十月の京極」はペンディング状態になっていたのです。
 それが一転したのは、清水敏一著「大町桂月の大雪山」という本に出逢ってから。この本の凄いところは、徹頭徹尾「登山家」としての桂月を描いたところでしょう。駒ヶ岳の馬の背を渡って行く場面も凄かったが、やはり圧巻は、当時未開拓の層雲峡ルートを登って行く大正十年八月の「大雪山」。この本は、桂月の登山の意味ばかりではなく、桂月の生業(なりわい)というものを同時に解明することに成功しています。

 では揮毫料とはいかほどの値段なのか、これも同年十月九日同じく小笠原宛に釧路から発信した書簡がある。文面の前段は略したが、<北海道にては書會の潤筆料十圓に候、秋田にては石塚氏の計らひにて六圓に候(半折)青森縣にては右御参考の上どうとも御定め下されたく候>とあって、北海道での潤筆料すなわち揮毫料は十円であったことが分かる。(中略)
 一九二一(大正十)年七月の北海道における予定を日記から見ると、
  函館、五日講演会、六日書会、七日書会
  小樽、九日午前午後講演、十日書会
  札幌、十一日午前講演、夜書会
  留萌、十三日午前書会、午後講演
  旭川、十五日講演、十六日午前書会
  名寄、十七日午前書会、午後講演
  士別、十八日午後書会、夜講演
  帯広、二十日午前書会、午後講演
  網走、二十二日午前書会、午後講演、二十三日三眺山登山
  野付牛、二十四日午後書会、夜講演
  釧路、二十六日講演、二十七日書会
  二十八日室蘭への途中、滝川にて泊、二十九日室蘭着
  室蘭、三十日講演、三十一日書会
 これは七月の例であるが、このようにして数ヶ月にわたる筆行脚を続けたのであった。
(清水敏一「大町桂月の大雪山」)

 で、八月の大雪山、十月の脇方となるわけです。イメージががらりと変わりました。ほとんど、椎名誠。百年前の「本の雑誌」の連中ですね、これは。清水さんは、桂月だけではなく、大雪山登山に同行した人たち全員を詳細にレポートしているのですが、その必要はあった。桂月の行く先々に先行し、開催の段取りをつけて行くスタッフ。秘書、マネージャーとして随行するスタッフ。そういう一群の存在を書かないと「大町桂月の大雪山」登山の意味がわからないからなのでしょう。

 いや、驚いた。なにか、漂泊の俳人・井上井月みたいな人がふらりと脇方を訪れたようなイメージを抱いていたのだが、錯覚だった。ここから、あの「独向白雲深処遊…」の詩を眺めると、なにか風景がちがったものに見えてくる。