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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十月の余市
 
 

 俳誌「緋衣」ここに生る。「緋の衣」は余市地方特産のりんごで通称「十九号」と言はるるもの、真紅で大きくて、香り高く、その味の豊醇甘美なること、まことに林檎中の王者たるにふさはしく、且つ余市地方以外には産しないといふ点では、真に郷土的産物たるの名に恥ない。本誌が北方季感の上に立って廣く本道の自然と人生との諸相を詠はんとする郷土俳誌たるの使命に鑑み、緋衣の誌名にこもる我等の意図を諒察せられ度い。
(古田謙二遺稿集「緋衣とともに」/創刊編輯余言)

 余市の古田謙二(冬草)が主宰していた俳句誌。名は当然、「緋衣」。

 鰊と林檎は、ある意味、余市イメージそのものですね。「ニッカ」ウィスキーの名も「大日本果汁株式会社」の名に由来。モルトが熟成するまでの何年間か、リンゴ・ジュースの製造で凌いでいたのでした。その、余市産林檎第一号の名が「緋之衣(ひのころも)」なのです。

 みなさんの故郷、余市のリンゴは、先人の開拓の苦労の中から生まれたものだということは、よくご存知のことでしょう。余市も大昔は、うっそうとした大木のしげる原野でした。ただし、海の方はニシンのとれるいい漁場になっていて、古くから開かれていました。
 そこへ入ってきたのが、会津藩の人たちでした。会津藩は江戸時代の最後に、日本が「開国」か「攘夷」かで大騒ぎになっていた頃、京都にいらっしゃる天皇を守るために『京都守護職』に、むりやり任命された藩です。他の藩は、幕府の言うとおりにしていては、時代の流れに乗り遅れる…と、上手に断っていたのでした。
(鈴木章実代/「緋の衣」と会津藩士、そして余市)

 なぜ会津藩は遠く蝦夷の余市に追いやられたのか。NHK大河ドラマでさんざん勉強した私たちは、この間の事情にはとても詳しい(笑) 現在の「龍馬伝」で、ほとんど総仕上げ状態。来年のアナログ放送終了でテレビやめようか…とも思っているのだが、まかりまちがって、大河で「林檎伝」でもやったら、気が変わるかもしれませんね。

 さて、緋の衣。

 会津藩の人たちは、ここ「余市」に住まいを定め、余市川の恵み・温かな気候・肥沃な土地を見込んで、ここを開拓の場所としました。(中略) しかし、彼らを統括した宗川熊四郎は、質実剛健で、人情に厚く、自分には厳しい人でした。宗川熊四郎父子の優れたリーダーシップによって、開拓の苦労を乗り越え、導かれ協力しながら、会津魂を発揮していったのです。ただ、悔しい思いをしたのは、「朝敵」(天皇家の敵)と、土地の人にまで意地悪を言われたり、死者が出た時に、どのお寺も「朝敵」には葬式はしてあげれないと言われたことです。
 会津藩の人たちにすれば、最後まで京都にとどまり、体をはって天皇家を守ってきたのは、われわれ会津藩だという思いがあるのです。そのためにこそ、我々は国を奪われ、家族を殺され、故郷を追われてしまったのだ。天皇家を守った証として、藩主.松平容保公は、じきじきに「緋色の衣」を頂いている。それなのになぜ、「朝敵」なのだ?という悔しさがどんなにか身を焦がしたことでしょう。
「もう、他人に頼るのはやめよう。これからは、我々で葬式を出しましょう。仏の教えは困るものを救うものではなかった。」そういって、仏教に頼らず、神道にのっとり悲しみをこらえて、執り行ったとのことです。
(同書より)

 そんな余市の日々に、変化が。

 その頃、余市に行った人たちは知りませんでしたが、会津藩はすでに明治政府から許され、藩主・松平容保公もご無事で、家名も再興しておりました。会津の人たちはもう無理に北海道にいることはなかったのです。
 ある年、ときの北海道開拓使長官・黒田清隆は、アメリカへの視察のおり、北海道と気候の似ている土地に育った「リンゴ」の苗木を、将来きっと役に立つと考え、数本持って帰りました。そして、東京の小石川の実験農場で栽培させ、増やした後に、余市の農家の人々にその苗木を植えてみるようにと渡しました。初めて「リンゴ」の苗木を見た余市の人々は、何だろうと思い、ひとまず庭の隅にうえておき、あまり期待もせずに放っておいたそうです。
(同書より)

 へえ、黒田清隆ですか…

 それから三年ほど過ぎたある秋の日。
 庭で遊んでいた男の子が、今まで見たこともない、おいしそうな赤い実を見つけました。
「兄上、ちょっときて下さい。」
「なんだい?」
「この実はおいしそうだけど、食べてもいいのでしようか?」
「そうだね、父上にお聞きしてみよう。」
「父上!」
「どうした?そんな大声をだして。」
「庭においしそうな赤い実がなっているのですが、食べてもいいのでしようか?」
(同書より)

 余市林檎の誕生。林檎余市の誕生とも云えましょうか。林檎の名は当然、

「皆様、私はこの実に『緋の衣』と名づけたいと思っております。孝明天皇陛下より賜った、我が会津藩が決して「朝敵」ではないことの証ある「緋色の衣」を我らの誇りとして生きていくために!」
(同書より)

 余市の黒川町。その町名の由来が、黒田清隆の「黒」と宗川熊四郎の「川」から来ているなんて、知らなかったな。勉強になる鈴木章実代さんの「<緋の衣>と会津藩士、そして余市」でした。