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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十月の小樽
 
 

 啄木の死から半年後の大正元年十月二十日、讀賣新聞の「懸賞募集読書日記」第二等に、小樽花園町に住む「紅屋世の介」の「生活と瞬間の読書」が掲載されます。以下、その全文。

 生活と瞬間の読書   紅屋世の介
九月三十日 今日は又朝からの雨だ。辛じて晴れたと思つたのに……秋の重つ苦しい空気はこんな日殊に濃く頭の周囲(ぐるり)を霧のやうに取巻てる、ああ又港で汽笛の音がする。何て嫌な音を出すんだらうなあ、毎朝あの音に脅かされてアタフタと店へ行くのかと思ふと……あの、朝のどんよりした雨もよひの中だ、全く自分の行く先忘れ果てた人の様に、迂(う)つ気た顔で伏目勝ちに歩いてる自分が何処かの硝子戸ボンヤリと蒼ざめたみすぼらしい顔をふいと見出した時、思はずぞつとする
僕等の顔は何時でも如何にも疲れ切つた様な色をしてる、藤田が今朝、「君は此頃口の先計りで物を言っている」と云つた、全くだ、僕はもう腹から聲を出す程力が無くなつた様な気がする。僕は幾ら努力してもあの乾ききつた商売には適し兼ねる。嬉しい日曜の翌日――今日は殊につらい、何故昨日札幌であの暗い道を終列車に間に合はせ様と停車場に走つたんだもう、一層帰らなきやよかつた。黒白会(こくはくかい)で見たロダンの巴里のゴロツキの眼の色が、あの闇を急ぐ僕の眼から離れなかつたそうだ、黒百合会の連中は幸福だ、ああした濃い色彩の中に自分を埋め切つて嬉しそうな顔をしてる、彼等は巴里のゴロツキを見ても「うむ、えらい力だね」といつて首を傾けて嬉しさうに感心してる、夫(それ)を僕等は「ああ此眼は俺の眼だ、ロダンは屹度何時か俺達の眼を盗み見してこんな顔を造つたに違ひないんだ」と思はせられる僕等の眼はそんなに光つてる、鋭い冷かな眼が何時でも生活といふものと睨みつくりをしてるんだ――
何か読みたい様な気もするが頭が物を味はう程潤ひが出ない、四角な活字の上に眼を少しでも働かすと、もう干からびた黒いインキが視神経をいやといふ程跳ね返す。
何時か藤田から借りた故啄木の「悲しき玩具(おもちや)」が寂しく何時かの儘机の上に死骸の様に横はつてる……
 二晩おきに、夜の一時頃切通の坂を上りしも
 ――勤めなればかな。
何て嫌な歌だ、僕は直ぐと本を放り出した、こんな歌を読むと如何にも僕自身の毎日を鋭い彫刻刀で心臓に彫りつけられる様に感じる、啄木が小樽であの暗い六畳室に眼計り光らしつつむづかしい言葉で自分の悲惨な生活を冷かに説明したあの時の事が思ひ出される、あああの男が死んだ、僕も何時か死ぬんだ、本を読むのがつまらない様な気がする。
十時になつた、もう虫も啼かなくなつたんだ、北海道の秋は実に寂しいなあ、ああビールでも飲みたい。
 △作者の家――小樽花園町学校通り 井上正夫方
(讀賣新聞 大正元年10月20日)

 句読点はそのまま。旧漢字は新漢字に直しました。この文章の存在を知ったのは、小樽啄木会発行の「小樽啄木会だより」第11号に載った啄木研究家・工藤肇氏の論文「啄木と会った<紅屋世の介>とは誰…?」です。へえ、こんな文章があったんだというのが、最初の感想でした。

 工藤氏は、文中の「藤田が今朝…」といった箇所に注目。この「藤田」はもちろん「藤田武治(南洋)」でしょう。さらに、文中には「啄木が小樽であの暗い六畳室に眼計り光らしつつむづかしい言葉で自分の悲惨な生活を冷かに説明したあの時」という見過ごせない一行もあり、もしこれが事実なら、「紅屋世の介」も小樽の啄木と会っていることになる。
 「藤田の友人」で、かつ、「啄木と会った」といえば、すぐに頭に浮かぶのは小樽啄木会初代会長「高田紅果」。でも、同じ「紅」でも、「紅屋世の介」と「高田紅果」とはあまりにちがいがありすぎる。紅果もまた投稿マニアですが、まかりまちがっても啄木を「あの男」などと呼んだりはしないでしょうから。では、いったい「紅屋世の介」は誰?と工藤氏の論文は進んで行きます。

 私は論文を読んで、ちょっと切なくなります。どんなに啄木研究の成果を傾けても、たぶん「紅屋世の介」の正体はあらわれないでしょう。この類の言説、私は初めて出会うわけではありません。いや、むしろ、小樽にいれば、必ず目にすることになる光景であり、人間たちではあるのです。つまり、「見てきたような啄木」。
 「バカ王子」か… 私には、啄木の死の翌年にはもう小樽花園町にバカ第一号があらわれていたことの方が驚きでしたね。「四角な活字の上に眼を少しでも働かすと、もう干からびた黒いインキが視神経をいやといふ程跳ね返す」か… こんなお茶目な自分が愛おしいのかもしれないが、頭、悪そう。世の介は、たぶん、小樽の文学館にいるんじゃないの。