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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十月の後志 (一)
 
 

 どうしん小樽販売所会が毎月発行している「小樽なつかし写真帖」。第39号の特集は「女性たち」。その中の一枚、明治36年10月の「観楓会・弁当渡所」の写真が、いいんですねー! 小樽の料亭「むかでや」の従業員の娘さんたちが勢揃いして、こっちを向いて笑っている。(著作権の関係でここに掲載できないのが残念…) 昔の写真って、高価ですから、スナップ写真という概念はまだありません。みんな、記念集合写真の中で表情を固くしている人たちばっかり。だからこそ、この観楓会の一枚は貴重なんです。いい笑顔だ。この中に私も入りたい。

 さて、この観楓会は300人を募集し会費は80銭、当時の小樽新聞の1ヶ月購読料30銭からだいたいの見当がつけられよう。弁当は自前だったが、茶菓・酒肴が用意され、記念写真の撮影や記念品(紀念杯)の配布があった。また、小樽や余市の商店などから酒・ピールをはじめ、茶やリンゴ・菓子などの食べ物からハンカチ・マッチまで寄贈があり、これらは店の宣伝もかねているのだろうが、商店主の気っ風のよさも伝わってくる。さらには病院長まで同行して(自費参加らしい)会員の安全に気を配っている。北海道鉄道では小樽中央(現小樽)・山道間の往復運賃88銭を割り引いたうえ、6両編成(うち2両は会員用の荷物車)の貸切特別臨時列車を仕立て、便宜をはかっている。参加者には木村円吉(参加者最高齢の74歳)や白鳥永作といった小樽の名士をはじめ、小樽におけるアマチユア写真家の草分けのひとり奥山富作もあり、彼が山道付近や稲穂峠で撮影した写真は今でも奥山家に大切に保管されている。
(渡辺真吾「新聞記事万華鏡」/小樽新聞社の第1回観楓会)

 「観楓会」って、北海道独特の風習だったのね!(東京の大学に行くようになって初めて知りました) あえて言えば、内地の「紅葉狩り」か… でも、桜の満開の下でのジンギスカンと同じで、一泊程度の温泉宿泊、酒宴って、やっぱり「紅葉狩り」の美学からはどこか大きく外れて今に至っているような気がします。
 結局、「ちまちま人形」か。この下品さをひらきなおって、「なまら何とか」とかで北海道をはしゃぎまわる下品さも鬱陶しいし… 今の小樽は概ね鬱陶しいガキたちの大観楓大会だ。

 第1回目の場所は稲穂峠で、6月28日に開業したばかりの北海道鉄道の山道(さんどう)から徒歩で向かった。山道は当時の小樽側の終点で、わずか1年後の翌年7月18日、山道・小沢(こざわ)間の開業により廃止されたが、それから1年もたたない1905(明治38)年1月に旧山道付近に銀山が開駅している。
(同書より)

 渡辺真吾さんの「新聞記事万華鏡」。市立小樽図書館報「しらかば」の連載、いつも楽しみに読んでいました。小樽の知性とは、こういうものです。あの一枚を撮った「奥山富作」。「山道」という駅。小樽新聞・碧川企救男の「観楓会」論。貸切列車の脱線… 1回の記事の中に、いくつもの知的興奮が詰まっている。

 山道・小樽間の開業
 その半年後の明治三十六年六月二十八日に、蘭島・小樽間の布設工事が完成し、然別から山道までの四マイルも伸び山道・小樽間が開業となった(函館方面は本郷・森間が開業)。ただ、開業式は当初、北海道鉄道会社社長の北垣国道七月に来道するのを待って行われる予定であったが、七月四日に水害が発生し、線路に被害が出たこともあって、自粛して挙行されなかった。
 山道駅発は午前八時三四分、午後〇時五〇分、午後六時三〇分の三本で一日三往復、小樽中央駅(現在の小樽駅)までの所要時間は、一時間三七分であり、山道・小樽間の三等の運賃は四四銭であった。(中略)
 山道駅が終着駅となってここから岩内、倶知安方面の旅行客は、峠越えすることになるが、山道駅と岩内の間には馬車が運行されていた。
(新仁木町史,2000.3)

 あの一枚の写真の中に、入りたい。とても。