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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の小樽 (一)
 
 

 私が救われたと思ったのは、母が引き止めて私を帰らせる予定だった日は、青函連絡船が事故で沈没したことだった。もし母の言う通りに伸ばしていたら、私はもう死んでいたところだった。早く帰りたかったのは、虫の知らせもあったようだった。
(萩原葉子「誰が悪いのでもない」)

 昭和29年9月26日夜半に出航した連絡船「洞爺丸」への乗船を運良く外した人。運悪く、乗り合わせた人。

 トウトウ僕ハ再ビミス・シマコノ国ヘ来タ。ソレハツライ長イ道デアッタ。五年前日本二居タ頃ニハ思イモカケナカッタGIノ服ヲ着テ、銀鼠色ノ輸送船二運バレテ、ミス・シマコノイル日本二僕ハ刻々近ヅキツツアル。
 (略)
 これは洞爺丸で遭難して行方不明になった米人ヒル氏の日記の一節である。
(葛城紀彦「北の湖」)

 ヒル。アメリカ人、ヒル。太平洋戦争に突入してゆく昭和14年、小樽の高等商業学校の同僚だったヒルの名を遭難者名簿の中に発見して島村は驚く。あの、アメリカに帰っていったヒルだろうか… なぜ北海道にいたのだろう? 小樽に行ったのだろうか? あの、中森志摩子がいた小樽に行ったのだろうか?

 「彼女の家とても貧乏です。弟や妹沢山あります。わたくし彼女の家貧乏なこと、何でもないです。わたくし、憐みから彼女を愛していると思われるのが一番つらいです。反対です。私の心は彼女によって救われているのですから――」
 彼女の家はO市から二駅目の蘭島の浜に近い処にあり、半農半漁の生活をしていた。彼女の祖父の代に暖かい志摩の国から北海道に渡って来たのだった。季節によって移る漁場を渡り歩いたり、農夫となって農場から農場へと住み替えたりしながらの十数年を送った後、漸く蘭島の海岸に住みついたのだった。二人の男の子の中、一人は海で亡くなり、志摩子の父だけが残った。母は祖父達と一緒に内地から渡って来た仲間の娘だった。
(葛城紀彦「北の湖」)

 日本人・中森志摩子を愛したヒル。一度は、太平洋戦争勃発のためにアメリカへ強制送還されるが、ヒルは進駐軍の兵隊に姿を変えて日本に戻ってきたのだった。ミス・シマコに会うために。

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 という、小樽を舞台にした悲恋ものの小品のはずなんですが、なんか、読後感がザラつく。それは、小樽高商(現在の小樽商大)の描写が瘤みたいにはみ出ているからではないでしょうか。

 一個月程過ぎた。私は次第に学校の授業にも慣れ、街の地理にも慣れて来た。
 学生達はなるぺく苦渋に満ちた学問をしているのだという自負心を持たせるように、難解な術語や、気取った文章のノートをとらせて居れば満足していた。そして出来るだけ多く西欧の学者名と学説を引用することであった。何でもないことでも平易な説明を加えることは教師自身を通俗のレベルに引き落すことだった。(略)
 けれども、私と同宿の学生の話によると、教室で学生に向って同僚教授の批判はするらしいのである。その批判は学説の批判ではなくて、学識の程度の批判であるらしい。そのことはよく考えて見ると、X教授はあの程度の学識であの地位を占めている、教授の序列の上での彼の位置は不当である、という誹謗なのである。私はこの学校の教授仲間にも派閥の争いがあることをやがて知った。
 私は次第にこういう教授仲問に到底なじめそうもないと思えて来た。彼等はどの程度の学殖を身につけているのか知らないが、皆それぞれに大学者らしい衿持に充ち満ちた身振をしていた。明治時代からせいぜい大正の半頃までの有名な学者達について語り草にされる超俗的な態度を以て学者らしさとするものの如くであった。
 私は北海道というものを、詩的な自分の空想の赴くままに描いて来たのであったが、明治以来急速に開発されて来たものの、現実の北海道は矢張り北辺の僻地であり、この市は外国船も出入する開港とはいえ、地方の小港市に過ぎないのではないか。勅任官であるこの学校の校長はこの市で最高等の官吏であった。教授達は、駅長や税関支所長や区裁判所長と共に数少い高等官の多くの部分を占めていた。彼等が青函連絡船に乗る度に土地の新聞の人事往来欄に名前が出た。この土地では彼等は確かに名士なのであった。私はこういう現実の環境に思い到ったときに、妙に高く持するかに見える彼等の挙措に一応の納得がいったのであった。それだからといって彼等が井蛙の徒であることの私の感じは少しも減殺されはしなかった。
(葛城紀彦「北の湖」)

 悪口書かせると、人間、いつまでもやってますね。井蛙の徒か… これと同じ言葉を、同じ小樽高商の学生からも聞いたぞ。

 大熊さんは短歌を作る人だと聞いていたが、詩も作るのか、と思い、私は立ち読みしながらその詩に評点をつけ、七十五点かな、と思った。福士と室生、ひょっとすれば千家元麿と武者小路実篤と中川一政の詩の影響も受けている。少し文学の分る連中は、大熊さんのこの詩をうまいと思うだろう。しかし大熊信行が影響を受けているのが、誰と誰とであるかを、本人と同じ位、または本人よりもよく分るのは、この町ではオレと平沢哲夫ぐらいのものだろう。要するに詩人としての大熊信行は井の中の蛙だなと、…
(伊藤整「若い詩人の肖像」)

 同僚からも、学生からも、ボロボロに言われてますね。当たっているだけに、可笑しいけれど…