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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の札幌 (一)
 
 

 私は、ヤエのいなくなった女中部屋で洋之介の看病も許されないまま、一夜を明かした。私は自分の部屋にも入る資格がないと言われたのである。叔母達の荷物置場になってしまった私のベッドの上には、菓子折やデパートの包み紙が積まれ、白粉くさい匂いが鼻をつく。家を出る時に整理しておいて良かったが、下着さえ取りに入れなかった。(中略)
 時たま女中部屋を覗きに来て「ここを動くんじゃない」と(与四郎が)恐い顔で私に言う。ヤエの部屋にいる私を面白そうに覗きに来た朋子が「やあい!知ってるよインラン!」と、私が家を出て行く時に言ったと同じことを.言って揶揄してみせる他は、誰も来ない。暫く会わない間にまた身長が伸び大人の背丈と変りなかった。
(萩原葉子「蕁麻の家」)

 昔、ベストセラーになった小説、萩原葉子「蕁麻の家」を読んでいた時には、あまり「朋子」には気がつかなかった。描かれている祖母や叔母たちの陰湿さや、洋之介(=萩原朔太郎)の無力さに気をとられて、とても、母親や妹の朋子(=萩原明子)のところまで目が行きとどきませんでした。気がついたのは、つい最近。なにかの拍子に同じ萩原葉子の「誰が悪いのでもない」を読む機会があって、そこで初めて、母親の萩原イネや妹の明子(アキラコと読ませる)の重大さに気がついたのでした。「蕁麻の家」、もう一度読み返しました。
 しかし、それでも半信半疑で、「蕁麻の家」に明子が出てくる場面なんか本当にあったかなぁと思っていたのだが… やっぱり、あった。「やあい!知ってるよインラン!」。

 萩原明子。極度の知恵遅れ。加えて、虚言癖。どんな症状かというと…

 母なし子の居候と言う私の肩書きが、妹も同じ筈なのに、祖母と一緒になって私に悪態をつくのだった。
「やあい、居候!」
と、私にかかって来る。
「やあい!おさる」と、私の猿年生れをからかうのだった。祖母が私を軽蔑するのに、十二支の中でも「申」が一番品が悪いことを、口癖に言うのである。猿は人間の見ている前で性交するので、母が姦通したことと重ね合わせ、私の生れ年を嗤うのだった。
「おさるのくせに人参嫌い!」と、小憎らしい顔で責める。すると妹をおだてるように叔母がくすんと笑う。おだてに乗りやすい妹は、
「おさるのくせに人参嫌い、やあい!人参食べろ!」
と、威丈高に出る。私は、妹が憎くてたらないが、後ろで応援している叔母が更に嫌だった。
「姉さんにそんなこと止めなさい」の一言があれば、明子は素直に止める性格だった。
 私は、腹が立っていたが、我慢していたので、顔が上気していたらしい。
「やあい、おさるのお尻みたいに真っ赤」と、いよいよ図に乗り、叔母が声を出して笑っている。
(萩原葉子「誰が悪いのでもない」)

 明子、9歳。この後、明子は5〜6歳児の知能のままで五十年以上を生きるのである。(「誰が悪いのでもない」が出版された時で55歳) 外面的には何の破綻も見受けられないので、周りの人はいとも簡単に明子の嘘を信じ込んでしまう。身体が大人になるにつけ、取り巻く社会的環境も大人の世界に移行し、その5歳児が吐く嘘も「おさるのお尻」といったものではすまされないものになって行く。しだいに深刻さを増して行く。

 なぜ、こんなことになったのか。

 或る日、私が学校から帰って来ると、誰もいない家の中に寝ていた妹が、絹が裂けたような突拍子ない大声を出した。
「ゆうやけこやけで……」と、たしかに唄のふしだった。恐る恐る妹を覗くと、二つの眼玉を吊り上げている。一杯に開けてあらぬところを見つめていた。その眼玉の白い三白眼がとても怖かった。
 唄の狂った調子と、突拍子もたいへんな歌声は、異様にひびき出した。
「アキチャン!どうしたの」
と、私は言ったが、明子の眼は人を受け入れない眼だった。
 母が帰って来ると「あら!お上手だこと!」と、笑っているのだった。母は、のんきだった。病気だと気がつかないのか?と私は、不思議だった。妹は、母にほめられてうれしいように、
「おてて、つないで」
と、次々に唄い出した。母も着替えながら、一緒に唄っている。
「アキ子ったら、急に歌がうまくなったのネ」と、言う。妹は四十度の熱が出ていた。
 それから、一週間めのことだった。医者が来て、
「手遅れでした。何故もっと早く知らせてくれないんですか」と、言った。
(同書より)

 何日も前から子どもが高熱を出して寝込んでいるのに、毎夜遊びに出て行く母・萩原イネ。

 「アタシは、まだ若い。頭の遅れた子供のために青春を犠牲にしたくないのよ」。結局、この母は、朔太郎も二人の子どもも捨てて家を出て行くのである。朔太郎の実家への居候。そして、「蕁麻の家」の物語が始まる。

 萩原葉子のいちばん不思議なところは、この明子の面倒を生涯にわたって看ること。日々、人の心のいちばん痛いところを確実に突いてくる明子の言葉を抱き込みながら。
 いや、さらに不思議なことがある。25年間、不明だった母の消息がわかると、その母に会いに行くところだ。母は、札幌にいるという。

 私は胸が一杯で夢見心地のまま、駅の改札口に出ようとすると、初老の女の人が「ヨウコじゃない」と、言った。その人の顔を見ると、たしかに見覚えがあった。子供の時の記憶が甦った。母の特徴の長いアゴが決め手となった。あっと思った時だった。
「ハギワラと似ている嫌な顔の女ネ」と、言った。
(同書より)

 なにひとつ変化も進歩もしていない母。なるほど、こういう人が、流れ流れて最後に住む街は、たしかに「札幌」しかないだろうな…と私などは思ったものだ。「蕁麻の家」ばかりが立ち並ぶ内地の街も生きるに息苦しいが、そうかといって、因習の薄い「こどもランド」札幌にいつまでも生きてるのも気が滅入る。母イネは、葉子の申し出を受けて、東京へ戻ってくる。

「アンタ、アタシが死んだら米山のあとがまになるんだって!怖ろしい女だ!もし死んでもアンタなんか呪い殺してやる」と、言ったのだった。
「……」
「しらばっくれてもムダよ。アキ子が教えてくれたんだから。アンタが夫と別れたのは、米山といつでも一緒になれるからだって」
(同書より)

 「ああ、うまかった。牛負けた」。明子さんは、今日も快調。