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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の占守島 (二)
 
 

 小樽の手宮駅に到着したのは、二月二十六日の未明である。実に十三日間に及ぶ大移動だった。降りしきる粉雪の中で卸下作業が開始された。
 なぜ小樽なのか。この期に及んでも、部隊の行先は不明だった。戦車部隊がこの港町に駐屯する理由はなく、再び船に乗るのだとしたら、途中の青森や函館を通過した意味もわからなかった。
 兵の表情は暗かった。企図を秘匿するためにわざわざ小樽までやってきて、南方の戦場に向かうのではあるまいかと誰もが危倶していた。
(浅田次郎「終わらざる夏」)

 満州の日ソ国境線にいた関東軍、精鋭の戦車部隊に転進先が告げられたのは、三月に入った北海ホテルの出陣式だった。知床岬からさらに一千二百キロを隔てた北千島。アリューシャンを奪還した米軍を、最前線の孤島で迎え撃つという。

 その晩、夕食をおえたあと大屋は思い立って港に行った。世界地図は知らないけれど、たぶんそこが満洲に一等近い場所だと思ったからだった。
 埠頭に並んだ戦車の間に佇んで、大屋は死んだ女房の位牌を冬の海に捨てた。自分が戦死したとき、遺品の中にそれがあったのでは、千和が悲しむと思った。軍人が戦場で死ぬのは当たり前だが、その往生際には誰に対しても不実があってはならなかった。
(同書より)

 千和は、死んだ女房の後に娶った現在の妻。満州の地に残したまま、大屋はここ小樽の地まで来てしまっていた。部隊の行先がわかった時、大屋のとるべき方法はひとつしか見つからなかった。彼は吹雪の海に流れ去る位牌に掌を合わせ、死んだ女房と顔も智ぬ子供に不実を詫びた。それから立ち上がって頭(こうべ)を垂れ、満洲の千和に向かって、詫びた。

 軍隊はやはり運隊だ。もし(満州の)斐徳で除隊の勧告をされたならば、たぶん大屋は素直に従ったはずだった。なぜなら、そこが本来は日本の国土ではないと知っていたからだ。関東軍は満洲国という友邦に進駐している軍隊であった。だが、千島防衛という任務は重みが孫った。日本の国土に進攻せんとする敵に対して、背を向けてはならなかった。実役停年や老耄や、家族の存在を戦わぬ理由にすれば、三十余年の軍隊生活はすべてご破算になってしまう。だから千島という任地を聞いたとたん、そこで戦い、そこで死ぬことがおのれの本分だと信じた。
(同書より)

 占守島に集まってくる、さまざまな人生。この夏、私たちは、とても大事な本を一冊手にした。忘れようたって、忘れられるものではない。

 日中首脳会談見送り
 漁船衝突で環境整わず 下旬の国連総会
 今月下旬の国連総会の場を利用した日中首脳会談が見送られる公算となった。尖閣諸島(中国名・釣魚島)沖での海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件をめぐり両国関係が険悪化していることが理由で、両政府とも首脳レベルで意見交換する環境にはないと判断した。複数の日中関係筋が15日、明らかにした。
(北海道新聞 2010年9月16日)

 隣にはご丁寧に「北朝鮮 党代表者会は水害で延期か」の記事も付けて。要するに、人質の身代金はまだか…という催促。千年、戦争と略奪しか知らない現世利益(唯物論ともいう)のモルドールの輩を前にして、クリーンな内閣を東京でぺらぺら喋っていられる人間を大変不思議に思う。有言実行を云うのならば、今すぐ「占守島」に行け。徴兵の年齢制限をわずかにあと一ヶ月に残していた片岡直哉に赤紙が届いた。