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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の札幌
 
 

 宮沢賢治の詩、「札幌市」。先駆形は、

 遠くなだれる灰光と
 歪んだ町の広場の砂に
 わたくしは かなしさを
 青い神話にしてまきちらしたけれども
 小鳥らはそれを啄まなかった

 「春と修羅 第三集」への発表形では、

 遠くなだれる灰光と
 貨物列車のふるひのなかで
 わたくしは湧きあがるかなしさを
 きれぎれ青い神話に変へて
 開拓紀念の楡の広場に
 力いっぱい撒いたけれども
 小鳥はそれを啄まなかった

と、変化します。注目すべきは、発表形で書きかえられた「開拓紀念の楡の広場」の一行。「紀念」というめずらしい言葉から、大通公園6丁目にある「開拓紀念碑」との関連を云う人もいます。大通公園に来たのではないか…と。
 訪れたのは大正12年7月31日から8月12日の樺太旅行でしょうか。詩の、孤独っぽい調子から、これを翌大正13年の修学旅行引率時とするには少し無理がある。おそらく、樺太からの帰り道。大正12年の樺太旅行は、詩集「春と修羅」の「オホーツク挽歌」の詩篇に対応しています。
 その挽歌群を見てみると、まずはあの有名な「青森挽歌」ですね。「こんなやみよののはらのなかをゆくときは…」です。そこから「オホーツク挽歌」は、いきなり樺太に入ってしまいます。「オホーツク挽歌」〜「樺太鉄道」〜「鈴谷平原」と。そして、さらに急転直下。樺太からの帰り道は、なんと「噴火湾(ノクターン)」からはじまるのです。もう室蘭を走っている! 翌日(8月12日)には花巻に着いているというエンディング。いったい「北海道」はどこに消えた?

 行きの足どりはある程度つかめます。「春と修羅」初版本には載りませんでしたが、現在「補遺」という形でいくつかの詩篇が残っているからです。「青森挽歌 三 1923.8.1」〜「津軽海峡 1923.8.1」〜「駒ケ岳」〜「旭川」〜「宗谷挽歌 1923.8.2」。
 これらの補遺詩篇によって、7月31日夜10時に花巻駅発の東北本線下り列車で出発。翌8月1日朝5時すぎに青森駅着。午前8時、青函連絡船で青森港を発ち、昼すぎに函館着。午後2時頃、函館本線「網走・根室行」列車で北へ向かう。札幌を過ぎたあたりで日付が変わる。(行きは札幌通過です) 8月2日午前5時、旭川着。昼12時、宗谷線急行一号で旭川駅を発ち、夜の9時すぎに稚内駅着。午後11時半、稚泊連絡船「対馬丸」に乗船。稚内港を出航。真夜中の宗谷海峡を渡り、8月3日午前7時半、樺太・大泊港に着です。
 その日の午前中に、王子製紙の細越健氏に会い、花巻農学校生徒の就職依頼を済ませています。つまり、樺太旅行のオフィシャルな用事は、この8月3日の時点で全部終了しているのです。後は、賢治の自由時間。
 8月7日の昼は、豊原近辺で植物採集をおこない、「鈴谷平原」をスケッチ。夜の21時に稚泊連絡船で大泊港を出航し、ふたたび宗谷海峡を渡る。翌8日の午前5時に稚内着。
 詩「噴火湾(ノクターン)」が始まるのは8月11日の夜明け前。室蘭本線の車窓から、午前4時森港発室蘭行きの噴火湾汽船を見たと年譜にはあります。以後の足どりは、同11日の午前6時半、函館に到着。7時半函館港発の青函連絡船に乗り、昼12時に青森着。東北本線上り列車に乗り、夜に盛岡に到着。ここで下車し、徒歩で花巻へ向かいました。8月12日、花巻到着。

 つまり、賢治の不明期間は8月9日と10日の二日間にあたります。8日午前5時に稚内に着き、北海道に入ってからの二日間の足どりがわからない。11日の夜明け前に噴火湾を通過する賢治の乗った列車は、稚内を前日の午前7時半に発ち、旭川(17時頃)、札幌(21時頃)をそれぞれ経由して、終点の函館に至る列車なので、賢治がこの経路の間のどこで乗車したかはまるでわからないのです。

 旭川? (そういえば、賢治には詩「旭川」がありますね。ちょっと、明るすぎるけれど…)

 やっぱり、札幌かなぁ。なぜ、大通公園の小鳥らは啄まなかったのだろう…