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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の後志
 
 

 この年(明治5年)、開拓使は、米国からケプロンを開拓顧問に招き、一行は八月東京着、直ちに立案調査を開始したが、一行中のケプロン補佐官、地質鉱山の専門技師アンチツセルは茅沼炭山を調査して、次のような建言をしている。
 【参考】
 茅ノ澗より二里半鉱山ありてタラムウエイ(石炭車道)に通じ、毎月五百噸を採掘し、一噸一円五十銭の費用にて之を海岸碇泊の運送船に積出して一噸の平均価三円にて売捌きつつあること、坑手十七名、人夫八十人、牡牛七頭之に従事し炭脈平均四尺あることを示し、彼の意見としては港湾を治むるに非ずんば到底発展せずとし、今にして施設せばその費用は三年ならずして償却されるだろうとしている。之を要するに茅ノ澗炭山の有望なるも先づ不完全なる積出港の改築を勧めたのである。
(岩内町史,1966年)

 茅沼炭鉱は、岩内町から積丹半島方面へ少しばかり行ったところにあった炭鉱です。(ちょっと句読点の打ち方が変で…)調査隊の「ケプロン補佐官」と「専門技師アンチツセル」の二人が茅沼炭鉱の調査に入ったかのようにも受け取られそうですが、ちがいます。茅沼の調査に入ったのは「トーマス・アンチセル」一人です。開拓顧問ケプロンの補佐官でもあり、地質鉱山の専門技師でもある「アンチセル」ということなんですね。

 彼は石炭の積出港としての岩内港湾整備を強く主張します。この後、アンチセルは開拓使官吏と衝突。また、職務分掌のことから、ケプロンの指揮を受けることを拒否したりして、開拓使から解雇されてゆくのですが、もしも、アンチセルが開拓使に残っていったとしたら、岩内町の様子もかなり変わったものになっていったことでしょう。

 アンチセルって、センスがかなり非凡。いろんなクリーンヒットをかっとばしています。それは、たとえば…

 明治五年に米人トーマス・アンチツセルが岩内付近で野生のホツプを発見、後に開拓使顧問ケプロンとともに、本道でのビール醸造を勧告している。
 この案に心を動かした当時の長官黒田清隆はやがてベルリンのテイフオリー醸造所でビール醸造の技術を学んできた中川清兵衛を御用係雇に任命、明治九年現在の日本麦酒札幌工場の場所に「開拓使札幌本庁物産局麦酒醸造所」を始めたのであつた。
 これを以てすれば、現在の札幌ビールの起りは正に岩内からということになるのである。
(同町史より)

 石炭積出港の町。ビール工場がある町。そんな、小樽と余市を足して二で割ったような岩内町が実現していたかもしれない…と想像したりするのは楽しい。この2010年8月、余市水産博物館では特別展「積丹半島 岩と人の物語」が始まっています。余市鉱山の資料も興味深いが、なんといっても茅沼炭鉱をとりあげてくれたのがありがたい。