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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の余市 (一)
 
 

 余市ヌッチ川奥で八月二七日、大川町番外地旧土人違星甚作(二七)が、一二〇貫の巨熊を射止めた。ヌッチ川上流カネタマ沢付近の耕地に屡々巨熊がでて、黍畑を荒すので八月二六日夜違星甚作は大膽にも、カネマタ沢に向い、二七日午前一時頃僅か四間の距離に近づき、咬殺されるのを覚悟で、銃砲一発放ち命中させトドメを刺す。一〇才以上の牡熊で皮は五畳敷に一杯となる。
(余市生活文化発達史/「一九〇八(明治四一)年 戊申」より)

 違星甚作は違星北斗の父。北斗のことを調べていたわけではないのだけれど、たまたま余市図書館で本をめくっていたらこの記述に出会いました。それにしても、120貫というのは、かなりデカい。「羆」本が大好きで、見つければ読んでいますけれど、大きさで言えば、吉村昭の名作「羆嵐」レベルの大きさではないでしょうか。

 「熊の話をせよといふことであります…」。東京に出た違星北斗も、あれこれ熊の話をせがまれます。彼にとっての熊の話とは、つまり、父・甚作の話。

シカリベツといふ山にさしかゝりました。弥助は西の方から、父は青年をつれて南の方からのぼりました。例によって父は一行にはぐれて歩いて居りました。所が父の猟犬が父の前に来て盛んに吠え立てます。父はすっかり立腹して了って、金剛杖(クワ)で犬をたゝきつけました。犬はなきながら遠ざかって行きました。程経て父の前にやって来て、また盛んに吠え立てます。狂犬になったのではないかと心配しながら又たゝきつけますが一寸後へ下るばかり、盛んに吠え立てます。今まですっかり気の附かなかった父の頭に、熊でも来たのではないかしらといふ考へが、ふいと浮んだので、ふりかへって見ると、馬の様な熊がやって来て居りました。
(違星北斗「熊の話」)

 出た。

それはもう鉄砲も打てない近い所に、じり/\と足もとをねらって居るのです。咄瑳に父はクワを雪の上へ突立てました。熊は驚いて横の方へまわって、尚も足元をうかゞって居ります。この間、鉄砲に弾を込める暇がありませんでした。(三日間も山を歩いたが熊に出会はなかったので、鉄砲には弾を込めてなかったのです。弾を込めたまゝ持って歩くといふことは可成り危険ですから)父は鉄砲で熊をなぐりました。たゝきました。その勢で熊は二回雪の上をとんばりがへりしました。父は一旦後じさりして、鉄砲に弾を込め様としましたが、先刻熊をたゝきつけた際に故障が出来て了って弾が入りません。
(同書より)

 弾込めしないで山を歩いているとか、とんぼ返りをする熊(←「とんばりがへり」の小技にはしびれました!)とか、実際に熊猟した人でないと描けない光景が続出です。

熊は今度は立って来ました。大きな熊でした。父は頭から肩先をたゝかれました。(この時父は太刀―タシロ―を抜くことをすっかり忘れて居たと申して居ります)ねぢ伏せられて父は抵抗しました。格闘しました。(中略) 父は熊の犬歯の歯の無い所を手でつかまへて尚も抵抗を続けて居りました。(中略) と見ると、父は最早、雪の中へ頭をつっ込んで、防寒用の犬の皮によってのみ、熊の牙からのがれて居りました。一同は思ひ切って後の方から一斉に鯨波の声を挙げて進んで行きました。熊はびっくりして後ろをふりかへりました。そして人間の上を飛び越えて逃げて行って了ひました。
(同書より)

 父・甚作の凄いところは、熊との格闘を怖れないところ。鉄砲を介さなくとも、直接に熊に向き合うところが凄い。北斗は、アイヌにとって熊とは「それはアイヌの信仰から来て居るのでありまして、つまり熊は神様だ、決して人間に害を加へるものではない」と言っていますね。そして、その熊を取る時代ではなくなった北海道を淋しく思う様子も少しばかり見せます。北斗は本当に雄弁ですね。聴きほれます…

 熊、熊! 野生の熊!!
 その熊を見たことのある現代人は果して幾程かあるであらうか?。――本道人は千人に一人も熊をみたことがあるだらうか?。内地の人に聞かせたい。私の父は熊と闘かった為めに、全身に傷跡が一ぱいある。熊とりが家業だったのだ。弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。又鉄砲もある。まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。それはもはや昔しをかたる記念なんだ。熊がゐなくなったから……。「人跡未到の地なし」と迄に開拓されたので安住地と食物とに窮した熊は二三の深山幽邃の地を名残に残したきり殆んど獲り尽くされたのである。―熊が居なくなった。本場であるべき吾北海道だのに「熊は珍らしい」と云ったら、内地の人は本当にするか?。
(違星北斗「熊と熊取の話」)