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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の樺太−小樽 (二)
 
 

 小樽は、笠戸丸がその終わりの日を過ごした港である。1995年(平成7)4月末、私はその港を海側から見るために、新潟へ行き、そこからフェリー、ニューはまなす(1万7304総トン、22.6ノット)で日本海を渡って小樽港に入った。せっかく回り道をしたのに、早朝4時、真っ暗いうちの入港で、墨汁を流したような海と斜面を埋める町の灯・無愛想に両腕を伸ばした防波堤の赤灯台と白灯台があるという、ごく普通の港の印象だった。桟橋についてから小樽駅まで歩くと「小林多喜二の店」、「蟹工船」などという食堂とともに、ロシア語の掲示、看板が多く目を引いた。それでも半世紀前を想像して、港湾を囲むふくよかな山々の向こうから、もしアメリカの艦載機が低空飛行で襲ってきたら、ひとたまりもないなという実感は湧いた。
(宇佐見昇三「笠戸丸から見た日本」)

 「蟹工船」という店、ありましたね。(もう、つぶれたけれど…)

 小樽には「ZAPPA」というバーもあったのだけど、こちらもつぶれた。(残念…)

 笠戸丸を一言で言うのは難しい。あまりにも、その運命が、数奇、かつ劇的すぎるから。試みに、宇佐見昇三氏の「笠戸丸から見た日本」から、各章のタイトルを拾ってみると…

 第2章「カザンの生まれ故郷」〜第3章「義勇艦隊の貢献」〜第5章「旅順封鎖中のカザン」〜第6章「笠戸丸とスメルスキー」〜第8章「中南米移民船笠戸丸」〜第13章「台湾航路に就航」〜第15章「日本の新植民地」〜第16章「白衣の笠戸丸」〜第17章「インド航路時代」〜第18章「日本最初のイワシ工船」〜第20章「サケ・マス工船笠戸丸」〜第21章「蟹工船笠戸丸」〜第22章「太平洋戦争始まる」〜第25章「大和に重油を」〜第26章「最後の航海」〜

 なかにし礼が「石狩挽歌」で「♪沖を通るは笠戸丸」と歌ったのは、この目次タイトルでいうと「第21章/蟹工船笠戸丸」の時代にあたるのかな。

 1900年(明治33年)、イギリスで建造されたロシア貨客船「Kazan」号。日露戦争中、旅順港内で被弾し沈座していたのを日本海軍が浮揚し捕獲。日本海軍に移籍し「笠戸丸」と改名。明治39年、ハワイへ移民646名を運ぶ。明治41年にはブラジルへ第一回移民団781名を運ぶ。以後、台湾航路、南米航路を経て、昭和5年、個人に売却され、いわし工船に改造。昭和7年、さらにフィッシュ・ミール工船に改造。最後は、昭和20年、ソ連軍により撃沈。
 いわば、日露戦争の仇を太平洋戦争でとられたようなものか。その間には「ハワイ移民」「ブラジル移民」という日本近代史の重要タームを含み、本当に、これほど数奇な船の話は聞いたことがない。

 宇佐見さんの本、夥しい取材データや参考文献のつまった四百ページの大著。(ほとんど完璧に近いくらい情報を網羅しているのではないだろうか…) ただ、ものすごく慎重な人なのか、結論を慌てて書かない。
 「笠戸丸」最後の航海。その目的は何だったのか? ソ連の撃沈の理由は何だったのか? 知りたいことはいくつもあるのだが、諸説がきちんと並べられるだけに、逆に、どれが真相なのかがわかりにくくなる。
 笠戸丸には作業員を装って軍の情報将校が乗り込んでいたとする森下康平氏の説。「ハマナスのかげで」(北書房,1979)所収の一話「ユタカの七月一五日」がふれている、小樽空襲の被害がなかった笠戸丸と第二龍寶丸がカムチャッカに行くことになったとする説…

 諸説、いずれも興味深い。