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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の樺太−小樽 (一)
 
 

 昭和20年8月22日午前4時20分頃、増毛町大別苅(おおべつかり)の村は、突然起ったすさまじい轟音につつまれた。家々のガラス窓は音を立てて震動。なにか爆発音のようで、沖合の方向からきこえてきた。終戦を迎えてから一週間、村の漁師たちには、戦時下の心理状態がそのまま残されていた。海上からとどろいてきたその音響は、戦闘行動に類した不穏なものに感じられたのだ。
 夜が、白々と明けてきた。小雨は降りつづき、海上には濃い霧が立ちこめている。夜が白々と明けてきた頃、海上を注視していた漁師たちは、海面を流れる霧の中から一隻の大型ボートが船体をにじませながら姿をあらわしてきたことに気づいた。ボートは、波のうねりに上下しながらせまい海岸に舳を向けて近づいてくる。

 漁師は、きき返した。男が、再びなにか言った。漁師はようやくその言葉の中に「オガサワラ」と「シナミン」という言葉をききとった。
 漁師は、釈然としなかったが、うなずくと人家の方へ引返した。たちまちかれのまわりに部落の者が集ってきた。
 かれらは、漁師の口にする「オガサワラ」と「シナミン」という言葉について思案した。「オガサワラ」という言葉からは、自然に小笠原島という島名が浮ぴ出たが、「シナミン」という言葉の意味がつかめなかった。
 突然、一人の男が、
「支那人ではないか」
と、顔をこわばらせて言った。
(吉村昭「烏の浜」)

 「大別苅に支那兵が敵前上陸してきた」との報告は、その後、誤報と判明する。当の別苅警備隊長川向市太郎から役場に電話がかかってきたからだ。川向は、意外な事実を伝えてきた。「別苅にボートで上陸してきたのは、支那兵じゃありません、沖合で遭難沈没した小笠原丸という船の生存者です」。

 小笠原丸。逓信省所属の海底線布設船。陸海軍の要請で海底電線の新設とその保守に走りまわり、乗組員はすべて軍属となっていた。終戦のラジオ放送を聞いたのは稚内港内。当然、内地の基地である横浜への回航をねがったが、通信網が乱れ中央との連絡がとれない。そのうちに、樺太の豊原逓信局長から、逓信省関係者家族の引揚げに従事して欲しいという強い要請が入る。
 稚内を出港したのは8月17日の夜。翌18日、大泊着。約千五百名の避難民を乗せて、19日には引揚げ者全員を稚内におろしている。任務を果たし、中央からは横浜へ回航せよの電報も届いていたが、いまだ大泊に群がる避難民のことを思うと内地へ空船で引き返すこともできず、翠川船長の決断で再び大泊に向かうこととなった。これが、運命の分かれ目となる。
 20日早朝、ソ連軍が樺太西海岸の真岡(まおか)に上陸開始。大泊にもソ連艦隊が砲撃する可能性が伝えられ、小笠原丸は即日出港を決意していた。千五百人以上の避難民を乗せて大泊の岸壁を離れたのが夜の11時。そして、稚内入港が翌21日の午前11時。
 小笠原丸は稚内で避難民を下ろして、内地へ回航するつもりでいた。ところが、避難民たちの多くは船を下りようとしない。引揚げ者の半数以上は、北海道南部から本州にかけての帰還者たちであり、そこへ、ポツダム宣言受諾後も戦闘行為をやめようとしないソ連軍の脅威が拍車をかけた。小笠原丸は約六百名の引揚げ者と約百名の乗組員を乗せ、中継地の小樽港をめざして午後4時頃稚内を出港した。

「魚雷音」
と、叫ぶのを耳にした。
田中一等運転士は、一瞬耳を疑ったようだったが、すぐに、
「どっちか」
と、甲高い声でたずねた。
「右舷方向です」
と、警備隊員の声が、反射的にもどってきた。
田中は、即座に、
「面舵、一杯」
(同書より)

 小笠原丸。昭和20年8月22日午前4時20分頃、留萌沖にて「国籍不明」の潜水艦に雷撃されて沈没。さらに、波間に漂う被災者たちに、浮上した潜水艦からの銃撃があった。ほとんどの乗船者が船とともに海中に没し、合計638名が犠牲となった。生存者、わずかに62名。

 北海道が、留萌−釧路を結ぶ「38度線」によって、「樺太民主主義人民共和国」と「大北海民国」に祖国分断される危機にあったことは、事実。六百人を超える犠牲の前で、「国籍不明」などという言論は、笑止。