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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



七月の後志 (二)
 
 

 大正12年7月7日、有島武郎と波多野秋子の遺体が軽井沢にある武郎の山荘で発見される。二人が誰にも行き先を伝えずに家を出てから、すでに一ヶ月。亡骸が別荘の管理人に発見された時、梅雨時のこともあり、二人の身体は身元が分からぬほど腐乱し朽ち果て、遺書の存在でようやくわかったという。有島武郎、享年45歳。波多野秋子、享年32歳。

 心中死に至る有島武郎の心の軌跡を想うと、いつも暗澹たる気持ちになる。

 波多野秋子。「婦人公論」編集者。初めて有島武郎を訪問したのは大正11年の冬だった。彼女は編集者としての才覚よりも、その美貌によって、ときの大物作家、難物作家たちに次々と執筆を承諾させる編集者であったという。だが、この時の訪問では、彼女は原稿依頼を断られている。有島は「美貌の婦人記者が僕を誘惑にくるんだよ。滑稽じゃないか」と漏らしていたそうだ。
 しかし、翌年初頭。何度も訪問する彼女に根負けしたのか、有島は原稿を引き受ける。波多野秋子はその後も有島邸を足繁く訪れ、有島が主宰する雑誌の編集を手伝うまでになった。そればかりか、自身に子のない人妻・秋子は有島の三人の子どもたちを何かと世話をするようにまでなる。こうして二人の関係は、作家と編集者というには、あまりに親密なものとなって行った。
 二人の関係は、やがて秋子の夫であり実業家の波多野春房の知るところとなる。波多野春房。秋子の十五歳年上の夫。そもそも、華族出身の妻を離籍して秋子を迎え入れた後、彼女を青山学院に通わせ、職業婦人としての自立を助けたのも、すべてはこの波多野春房の力だった。ことの顛末を知った春房は、6月6日、有島を秋子とともに波多野の事務所に呼び出し、有島に金銭での取り引きを持ちかける。その時の模様を、弟の作家・里見クが「安城家の兄弟」という小説に書いている。

「お前は有名な吝嗇ン坊(しわんぼう)ださうだから芸者なんぞに係わり合ふことはし得ないで、金の要らない人妻ばかり狙うんだらう。敏子(=波多野秋子)は、自活の出来る職業婦人だから、その点、益々好都合だと思って誘惑したんだらう」
と、頭から罵言を加へて置いて、
「それほどお前の気に入った敏子なら、慰斗をつけて進上しないものでもないが、併し俺は商人だ。商売人といふ者は、品物を無償で提供しやアしない、敏子は、既に十一年も妻として扶養して来たのだし.それ以前の三四年も俺の手元に引き取って教育してゐたのだから.それ相当の代金を要求するつもりだ。俺ぁこんな恥曝しをしては、もう会社にも勤めてゐられない。これ、この通り辞表も書いで来てゐるんだ」
と、言って、和洋二通の辞表を出して見せた。そこには、「家庭内に言うに忍びざる事件起り」といふやうな文言もあった。
(中略)
「敏子は、今すぐにでも離籍してやるが、併し、それでい〜気ンなって、おいそれとお前たちが夫婦になるやうなまねは断然許さん。少くも一年か一年半たってからでなくっちア、第一世間がうるさくって困る。それから、金は、一度だけ支払えばそれですんだと思うな。俺は、吝嗇ン坊のお前を、一生金で苦しめてやるつもりなんだから。それは今から覚悟しておけ!」
(里見ク「安城家の兄弟」)

 なんという下品… 心中を強く迫ったのは波多野秋子だというが、彼女は、こんな夫のもとで、人生にも自分にも絶望していたのかもしれない。そして、有島武郎。人妻を奪い取ったことには謝罪する心を持っていた有島だったが、この波多野春房の予想外の言葉にはいきり立つ。有島は「まづ自分には、命がけで愛してゐる女を、金に換算し、取引するやうな、そんな侮辱は自他のために所詮忍び得るところでない」と拒絶する。

「よし! ぢア、これからすぐ警視庁へ同行しろ!」
と、息巻いたが、文吉(=有島武郎)は、もとより望むところと、即座に、
「よろしい、行かう!」
と座を立った。──これは、明かに萩原(=波多野春房)の予算違いで、もしさう言ったなら、ひとたまりもなく文吉が震え上がり、床に額を摺りつけて、哀訴嘆願するものとばかり思いこんでゐたらしい。で、ややたじろぎながらも、
「お前は、警視庁へ行ったら、敏子を裏切って、美人局だなんて言び張るつむりなんだらう!」
と、一喝しておいて、更に、「お前は、今のうちこそ、そん空威張りをしてゐるが、実際監獄にはいってみろ!お前には三人の子供や、また老(としと)った親もあるって話だが、さういふ人たちのことは、何とも思わないのか!あとなんぞ、どうなって構わないっていふのか!……俺にしたって、十一年も一緒に暮して来た、無邪気な、まるで鳩みたいな敏子を監獄へなんぞやりたかアない。いくらお前が吝嗇ン坊だって、まだしもそれア、金で始末をつけた方が楽だらうぜ!」
そこで文吉は、
「・・・・・いづれにせよ、僕は愛する女を金に換算する要求には、断じて應じられないんだから、一時も早く警視庁に突き出して貰はう!」
(同書より)

 ああ、胸がつまる。こんな下衆と話をするために、有島武郎の四十五年の人生はあったのだろうか! (もう、これ以上引用するのが苦しい…)

 かなしい有島の葬儀。けれど、最近知ったのですが、この日、一粒の種が地に蒔かれていたのですね。

 岩内出身の木田金次郎と、鳥取出身の橋浦泰雄。この二人が出会ったのは、有島武郎が結んだ縁による。
 木田と有島との出会いは、有島が東北帝国大学(現在の北海道大学の前身)の講師だった時に札幌で。その出会いが小説「生まれ出づる悩み」に描かれた。
 橋浦泰雄と有島の出会いは、弟の橋浦季雄が仲立ちしている。季雄が有島の教え子であったことから知己となり、東京で親しく交流した。橋浦が有島作品の出版を担っていた出版社・叢文閣(足助素一社主)で編集作業を行っていたこともある。橋浦が有島に伝えたキリスト教思想に対する見解から、有島は評論「惜しみなく愛は奪う」を著し、謝辞として橋浦の名(当時は坂田姓)を挙げている。
 木田と橋浦が出会ったのは、おそらく1923(大正12)年7月、東京での有島の葬儀の時であったろう。
(木田金次郎美術館「橋浦泰雄−旅への導き」展カタログより)

 そして、木田が札幌の田上義也に出会うのは、この数ヶ月後。