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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



七月の後志 (一)
 
 

 明治37年7月、岩内馬車鉄道株式会社が創立される。資本金、6万円。現在価格にして12億円。道内では、函館に次ぐ二番目の馬車鉄道だった。岩内(いわない)町内を一周した後、小沢(こざわ)までの18キロを走った。所要時間2時間。運賃は25銭。現在価格の約5千円が高いか、安いか。ただ、この路線がないと、岩内町民は小樽、札幌方面へなかなか出られない。岩内は、船しか使えない、陸の孤島になってしまう。

 なぜ、岩内馬車鉄道は起こったのか? 理由はいたって簡単。後の函館本線になる鉄路になんとか岩内町を接続するためです。

 時に、明治二十九年、北海道鉄道敷設法が公布され、函館、小樽間の鉄道は、その第二期線に編入されていたので、同三十年函樽鉄道株式会杜が組織され、路線の計画を発表した。
 ところが、この本線予定線には、岩内を経由しないことが判明したので、岩内に於いては、武藤清兵衛、安達定吉等の主唱によつて、岩内鉄道同志会を組織し、予定線敷設変更の運動を起し、蕨岱より、寿都、歌棄、磯谷、雷電を経て岩内に出て、小沢村セトセを通つて稲穂峠を貫通して本線に繋ぐ、所謂海岸線変更案を樹て、自から測量調査に当り、それぞれ猛運動を展開したが、遂に奏功せず、函館、小樽間本線は岩内を経由せず現路線の通り明治三十七年に開通した。わずかに然別、赤井川、六郷通過の原案を、小沢通過の(現線)案に変更せしめ得たに過ぎなかつた。
(岩内町史,1966.11)

 なるほどね。蕨岱(わらびたい)〜寿都(すっつ)〜歌棄(うたすつ)〜磯谷(いそや)〜雷電(らいでん)海岸を経て、岩内か… これ、昔、函館に単身赴任していた頃、小樽の家に戻る時に使っていたルートですね。函館から長万部までは一本道(国道5号線)だからどうしようもないけれど、長万部を越えて黒松内に入ったら、まっすぐ寿都方向へ抜けるんです。で、寿都から海岸線を飛ばして、岩内〜稲穂峠越えで小樽に向かいます。
 たぶん、ゴールが小樽だから、こういうルートにしたのだと思います。距離的には、倶知安を通る国道5号線とそんなにはちがっていないのでしょうけれど、精神的には全然ちがう。海岸線を走っている方が小樽に近づいている実感があるのです。片道4時間ですからね。陸路を走っていると、まだか、まだか、小樽はまだか…と焦燥感がつのって、4時間がとてもつらく感じたものです。
 そういえば、札幌の家に帰る人は、この新谷ルートを全然評価していませんでしたね(笑) 面白がって一度はやってみるのですが、やはり、いつの間にか、中山峠越えの定番「本願寺道路」ルートに戻ってしまうようです。私に言わせれば、中山峠は本当に「峠」だし(これに比べたら稲穂峠なんてただの「坂道」)、峠を下りて定山渓に入っても札幌市内まではまだたらたら長いし、いいところなんか何もないような道に思えるんですけれどね。わからんもんです。

 閑話休題。この、函樽鉄道株式会社の最初の路線案、「小沢」すら入っていなかったというのが大変興味深い。「赤井川」ですか。六郷(ろくごう)〜赤井川(あかいがわ)〜然別(しかりべつ)という路線は、要するに、現在の国道393ですね。なるほどね。このルートにすると、距離は長くなるが、稲穂トンネルや小沢トンネル開削の苦労はいらなくなる。

 汽車は今コザハトンネルくぐったふとこの山の昔しを偲ぶ
 (違星北斗/コタン吟)

 岩内町が頑張らなかったら、この北斗の歌もなかったんだ。

 ところで、この「赤井川」を通る鉄道という話、驚くことに40年後の昭和10年、またもや亡霊となってあらわれ出でてくるのです。

 幻の倶知安・赤井川・南小樽間の鉄道敷設
 昭和一〇年一月十四日、倶知安町長大橋千次郎から赤井川村村長小田島嘉一郎宛に件名「鉄道敷設請願に関する件」という文書が届く。内容は、「当町(倶知安町)から赤井川村明治鉱山を経て南小樽駅に連絡する鉄道敷設に関し、当町より政府当局を始め貴族、衆議両院に請願いたし候処、既に前二日貴族院は請願を採択、之を政府に送付し衆議院に建議案として可決、政府に建議を見たる路線」であるとこれまでの経緯を説明し、「敷設実現まで毎年政府当局並びに議会に請願書提出」するよう求めたものである。また添付書類に倶知安町議会の決議書がある。
(赤井川村史,2004.2)

 同年5月には、鉄道省建設局長から赤井川村長に「赤井川村の生産物資の移出入調査」の依頼があり、村は直ちに「鉱山状態調査」「赤井川村産業調査」の資料を送付しています。そして同じ5月、鉄道測量隊が早々と入り、赤井川地区の明治鉱山周辺や小樽峠一帯の測量が行なわれているのです。
 しかし、この鉄道敷設運動は、この昭和10年の測量完了とともに立ち消えになってしまいます。立ち消えの理由として、赤井川村史は「国策としての戦争への傾斜」にあるのでは…と推察していますが、やはり、そう考えるしかないでしょうね。
 例えば、胆振線。伊達紋別〜倶知安間が最終的に全通したのが昭和16年。戦時中にもかかわらず国有化が昭和19年。この慌ただしさの背景には、京極町・脇方鉱山から出る鉄鉱石を一刻でも早く鉄の街・室蘭に出したい国策があったのですが、こと、赤井川村の明治鉱山や轟(とどろき)鉱山に関しても、事情は同じでしょう。戦争遂行の国策の中で、さまざまな思惑や鉄路の取捨選択が日本中で渦巻いていたのだと想像します。
 もし、明治や轟鉱山から出るものが金や銀でなく、鉄鉱石であったならば、あるいは、胆振線は、明治29年計画のように、「赤井川」〜「小樽」へ延伸していたのかもしれませんね。