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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



七月の小樽 (一)
 
 

 去年、図書館で「坂」の名や場所を確認しては外に飛び出し、その「坂」の写真を撮ってきては、また図書館に戻ってくるということを繰り返していた夏。つくづくと、「坂」に関しての情報では、市役所の「広報おたる」連載の「おたる坂まち散歩」に勝るものはないとの結論に達しました。今は市のHPにも掲載されていますので、さらに便利に活用することができます。これです。
 おたる坂まち散歩
文章も簡潔にして、無駄がほとんどない。なにも足したり引いたりする必要がない。たとえば、「外人坂」。

 小樽港と石狩湾のパノラマが手にとるように一望できる水天宮。その境内から海側に、のぞき込むように急で長い階段があります。足元に気を付けながら123段の階段を下ると、さらに下り坂が続いています。ここは、かつてこの道沿いの家に、外国人一家が暮らしていたことから外人坂と呼ばれています。この坂の海に向かって右側に、大正2年から昭和25年まで37年間小樽で生活していた、ドイツ人貿易商カール・コッフさんと家族が住んでいました。
 小樽港は当時、道内産のナラ(楢)のインチ材をヨーロッパに輸出する貨物船でにぎわっていました。このインチ材は、特にイギリスではオークとして、家具などに珍重されました。昭和12年の貿易統計では、輸出総額3700万円のうち、インチ材が889万円と、全体の24パーセントを占めるほどでした。
 ドイツ・ハンブルグ市に本社のあるゲルトネル商会も明治42年に小樽に支店を開設し、このインチ材の輸出をしていました。コッフさんが大正2年にゲルトネル商会に来たとき、彼はまだ18歳の青年だったそうです。
 コッフさんは大正11年に結婚し、小樽で一男一女をもうけました。小樽生まれのグンター君とエルガさんは、近所の道路で自転車に乗り、冬は坂でスキーをする姿が見られたそうです。お嬢さんのエルガさんは親しくしていた近所の奥さんから「菊」という日本名をつけてもらったほどかわいがられていました。
(おたる坂まち散歩 第7話/コッフさんと外人坂 前編)

 外人坂の名前の由来となったドイツ人貿易商コッフさん一家は小樽で幸せに暮らしていました。昭和14年、グンター君とエルガさん(日本名キクさん)は教育のためドイツにいったん帰りましたが、兄妹を待っていたのは、第二次世界大戦開戦の知らせでした。
 コッフさんから兄妹への手紙は検閲のため7年間も届かず、一家がようやく再会できたのは11年後、戦後の昭和25年でした。コッフ夫妻は、小樽での事業再興を断念して帰国することになりましたが、その際には、寿原市長はじめ多くの市民による盛大なお別れ会が開かれました。
(おたる坂まち散歩 第8話/コッフさんと外人坂 後編)

 このままたらたら引用を続けてもいいのだが、それではあまりに安易な仕事ではないかという声もあるので、ここで少しばかり「外」に飛び出して取材してきます。

 「きれいになった街」 マンスハードさん 18年ぶり故郷訪問
 小樽で生まれ、幼年時代を過ごしたドイツ人、菊・マンスハードさん(六五)=同国フライブルグ市在住=が二十七日、十八年ぶりに来樽した。市役所を訪れたマンスハードさんは「景色は変わりませんが、きれいな街になりました」と、流ちょうな日本語で今と昔を振り返っていた。
 マンスハードさんは同市の独日文化協会会長。同会会員のフミカ・メルケルさん(二八)、ラインヒルト・マスターブロイさん(三九)の二人も同席した。
 新谷市長は「心から歓迎します」とあいさつ。マンスハードさんは「生まれ故郷のこの街には深い愛を感じています。両親と兄とともに暮らした日々は生涯で最も楽しい時でした」と話し、途中で感極まって涙声になる場面もあった。マンスハードさんの父親、故カール・コッフさんはドイツの材木貿易商会に勤め、大正二年ごろから昭和二十五年まで小樽に住んでいた。住居跡は現在、相生町と東雲町の間に「外人坂」として名前を残している。
(北海道新聞 1993年7月28日 後志小樽版)

 水天宮から続く外人坂。かつてここで幸せに暮らしていた外国人一家。「たたずめば兄妹の声がどこからか聞こえてくる気がします」と書いたのは平成14年3月の「おたる坂まち散歩」。しかし、現在。いったいこのマンションは何事なの… 外人坂の、小樽の、いったいお前は何なの?