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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



六月の後志 (二)
 
 

 ここに一枚の写真が。頂上にまだ雪が残る羊蹄山の麓、東倶知安村・目名の原野を走るトラクター。そして、トラクターを運転しているのは鈴木農場の農主・鈴木重慶。大正13年。まだ有島武郎「カインの末裔」のような世界が生きている中での、この一枚はとてつもない衝撃ではあります。
 
 
 鈴木重慶。明治33年札幌農学校農芸科(今の北大農学部の前身)に入学。36年卒業。同年の6月に農商務省実業練習生として渡米します。アメリカで当時名高かったガラー農場で農業経営の実際を学び、練乳工場を視察したりニューオリアンス附近で農業や開墾の作業をしました。38年にはクリスタルシテーのフッグ氏の牧場で農業経営を研究、同年8月にはマンハッタンで農科大学に入学し、農業経営学、農用機械学、酪農学を専攻、その後もアメリカ各地の牧場、酪農工場を視察して明治40年3月日本に帰りました。
 アメリカ帰りの鈴木は、その年8月東北帝国大学農科大学(今の北大)助手を拝命、畜産と農産製造実習を担任、同大学第一農場畜産部主任などをしていたが43年大学をやめ倶知安の地に入ります。

 倶知安に帰ったかれは、115町歩の土地のうち30町歩で米国仕込みの混同農業を始めた。大正2年には普通農業経営法を著作し、明治記念拓殖博覧会で銅賞を得た。かれはこの著作にある農業経営を実地に行なおうとした。その頃非常に珍しいトラクターを使い、特に人々を驚かせたのは蒸気機関を利用した脱穀・精穀のほかアメリカ製の播種機、モーアなどの大農具を使ったことであった。
 かれはこの頃すでに輪作を計画し、大福豆、小豆、大豆、裸麦、ウズラ豆、トウモロコシ、エンバクの8区間を6年輪作とするなど思いきった新しい方法をとり入れた事も倶知安町史はしるしている。
(京極町史,1977/第4章 大正期の東倶知安/10 鈴木農場)

 鈴木が東倶知安村(現在の京極町)の土地を買ったのは大正13年。トラクター、デスクプラウ、10連以上の大型デスクハロー、ヘーモーア、ヘーレーキなどの大農機具を使い、地主自身が農場経営を始めるという、当時としてはありえないスタイル。トラクターが、地響きを立て、エンジンの音を羊蹄にこだまさせて目名の原野を馳駆する姿が村人の度肝を抜かなかったわけがない。

 大正12年編者が小学5年生の時、秋の遠足に鈴木農場を見孝した。大きなバリカンのように思えたモーアがエンバク畑にあった。牛乳を大きなナベで接待してくれたが、60人ほどの男子児童は、ほとんど初めて飲む牛乳であった。まるで外国の農場へ来たように思ったものだ。
 また、トラクターが時おり道路を走ることがあった。その音がはるか遠くから響いてくると、「鈴木農場のトラクターだ」と言って戸外に走り出た。運転手はりっばな風格の鈴木さんであった。
(同書より)

 しかし、鈴木農場の経営は失敗に終ります。この目名(現在の京極町川西)の地は羊蹄山麓の無水地帯で火山礫の多い強酸性のやせ地だったのです。そこで鈴木は牛を飼い始めますが、この牛乳も販路の問題でストップ。分離機を備え、バターの製作に乗り出しますが、これもまた、販路がない。現在とちがって、牛乳という食文化がなかった時代ではありました。
 ふたたび最初の課題に立ち返り、水をなんとかしなければと考えた鈴木は、井戸掘さくに数年間にわたって挑戦します。莫大な金と時間を費したが成功しませんでした。この井戸が、鈴木農場を断念せざるを得なかった決定打と言われています。

 鈴木農場は能登農場のもう一段上手の西側にありました。そこは羊蹄山噴き出しの石礫の非常に多い所で、プラオをかけるにもたいへんた土地でした。もちろん地味も悪く鈴木さんが京極で初めてのトラクターを使って大農経営をしましたが成功は至難だったのです。
 鈴木農場は能登農場よりも、なおひどい無水地帯で、大きな深井戸を何回も掘っていたが十分水が出ず、牛を飼うにも適さなかったのです。それでも鈴木さんのトラクターは昭和5、6年頃まで聞えていたように思います。(寺田武雄談)
(同書より)

 京極町でトラクターが使われるようになったのは鈴木農場の失敗から30年後、もう戦後の話です。いかに鈴木重慶の仕事が先駆的なものであったか。「京極町史」も「鈴木ほどの先覚者に時代がついて行けなかったのだ」と最大級の賛辞を送っています。現在の川西。当時とは一変して沃野となり、京極町屈指の重要な生産地帯となっている川西を通る時、私も、ここに「大農発祥の地」があったことに感無量な興奮をおぼえるのです。ここを鈴木重慶のあのトラクターが走って行ったんだ…と。