Welcome to SWAN 2001 Homepage


 
 
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



六月の後志
 
 

 急に二人は寄り添いたいような話がいつぱいあるような気持になつたけれども、国子は一人で湖の辺にずんずん降りて行つた。
「危ないですよ。落葉が水ぎわに土のようにたまつていますから、そこんところは柔かいんですよ」
 門馬も水ぎわへ降りて来た。
 水面を小さい蜻蛉がすいすいと飛んでいる。
 (中略)
 門馬は羊歯をとつて、二人の腰をかけるにいゝ場所をつくつてさつそく鑵詰を開けている。
 水蜜桃の鑵と、スキーの絵のついたアスパラガスの鑵がきれいだつた。鑵を開けると芳烈な果汁の匂いがした。
「さア。お上んなさい、のどが乾いたでしよう」
 ナイフについている銀色のフォークで、乳色の.アスパラガスを刺して、国子を呼んだ。国子が傘をすぼめて門馬のそばへ行くと、門馬は皓い歯を出して笑いながら、
「あーんと口をお開けなさい」
 そう云つて、アスパラガスの瑞々しいのを国子の唇もとに持つて来てくれた。
 国子は子供のように唇をあけて半分食ぺた。フォークに残つた半分のアスパラガスを、門馬はあなやもなく自分で頬ばつて、濡れた唇を大きい掌で拭いた。
「山で食べるせいかとてもおいしいんですのね」
(林芙美子「田園日記」)

 羊蹄山の麓の半月湖。その湖畔で遊ぶ昭和九年の林芙美子。
 
 

 前回、この昭和九年五〜六月の北海道旅行には「啄木」のモチーフが隠されているのではないかと書きましたが、この時の取材をもとに書かれた小説「田園日記」を読んでいて、もうひとつ「啄木」話題を発見しました。それがここです。国子が想っていた門馬が倶知安の延岡老人の農場を離れ、単身開墾に入り込んでいった土地。

「麦刈りの頃はまだいゝのですが、未開地をあれまでにするのが大変なんですよ。――岩見沢の僕の仕事も、まア三年計画で始めているのですが、一年ほど十人の人が必要です。暗渠排水工事と云つて、土のなかをとおつている水分をとるために、土管を埋めたり、竹や木を埋めたりして大工事をしなければ、立派なみのりは求められません。たゞ、ほんの一寸いただけで田園の美しさを云うひとがあるけれど、田園の美しさを知つているのは旅行者や詩人ではなくて、、本当にそこで働いている百姓達ですよ。――岩見沢の僕の農場も三年たつたら来てみて下さい。自慢して御案内出来るだろうと思います」
(同書より)

 岩見沢の北、農地開拓の「暗渠排水工事」といえば、これはもう、知ってる人は知っている、北村農場、「北村謹」なんですね。

 北村は、平成18年3月に岩見沢市と合併するまで106年間、独立した行政組織として存在しており、その開拓の歴史はまさに冷・水害と泥炭地との闘いの歴史であるといえます。
 北村開拓の功労者は山梨県出身の北村雄治氏で、明治27年開拓使より150万坪の土地の払下げを受けて北村農場を開設したのが始まり。明治33年に岩見沢村(当時)から分村した際に村名の由来にもなりました。
 この農業資料館には開村当時の様子が良くわかるジオラマや、農機具、生活用品などが数多く展示されています。また、入り口付近には圃場整備中に泥炭から出土したという「ヤチダモ」の大木などもあり、開拓当時の苦労がしのばれます。
 蛇足になりますが、北村雄治氏の末弟である北村謹氏(北村農場から独立し北村牧場を開設)の奥さんは石川啄木の思い人といわれた橘チエ氏(結婚後、病気療養中の啄木に当時貴重とされたバターを送った女性)で、名前こそ出てはいませんが啄木の歌集に幾度となく登場するその人です。
(宮脇大木建設株式会社HPより)

 石狩の空知郡(そらちごほり)の
 牧場のお嫁さんより送り来し
 バタかな。    (悲しき玩具)

 やー、こんなマイナーな啄木話題まで取材して書いているんだとしたら、林芙美子って、ちょっと空恐ろしい。この「田園日記」、たらたら男女の恋愛感情を書いているように見えるけれど、はっと気かつくと時代背景が太平洋戦争進行中の日本だったりして、ほんと、油断も隙もありゃしない。