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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



六月の小樽 (一)
 
 

 明治41年の6月26日、小樽新聞は「若竹町の活き地獄」と題する記事を載せます。

若竹町の活き地獄 (監視の赤鬼青鬼は棍棒と短銃を提ぐ)
当区若竹町築港事務所土工請負人中山惣次郎は土工を虐待して死に至らしめたという風評喧しく、数日前にも虐待に耐えきれず逃走した者がいる。しかるに、中山方の小頭八、九名は手に手に棍棒を掲げ、奥沢方面に向かい頻りに捜索しているのを見て、付近の人々は発見されて殺されるのではないかと心配しているほどで、その筋においても捨て置けず探査したことがある。噂はもとより信じがたいが、日々使役している数百人の土工を酷使しているのは事実で、彼は土工を募集するため本道各地の新聞に募集広告を掲げ、内地でも青森、秋田、宮城、福島、茨城の諸県に赴き、同様新聞広告を掲げた。されば、本道の事情に通じない人々は喜んで応募して.来てみれば、新聞広告のような容易な労働で無く、加えるに月末の給料も満足に払わないので、初めて欺かれたことを悟り、帰国しようとしても許さず、腹心の小頭と共謀して夜は表入口に錠を下して外出を禁じ、監視人はピストルを携え絶えず警戒しているため、応募した数百名の土工は逃げるにも逃げられず、右の事情を訴えようとしても外出を許されないので、一同は涙を飲んで労役に服している始末である。

 長いので後略としますが、この後、記事は土工・小野馬次郎の自殺未遂事件にふれ、小樽築港の土工部屋での虐待をにおわせています。この報道に真っ向から対立する記事が発表されるのが、翌日の北海タイムス。さすがは道内を二分するライバル紙。同じ事件なのに、ここまで論調が異なる。

土工虐待の風説 (犯人は拘留七日の処分)
目下着手中の小樽港第二防波堤工事土工請負人中山惣次郎の土工部屋で土工を虐待し死に至らしめたという風説がある。かつ、これについて誇大な報道をする者もあるが、小樽警察署の取調べによれば、去る二十二日午後六時頃中山方の土工の小野馬次郎が他人の煙草入れを窃取したのを小頭の茨城県人根本明治が発見した。殺伐な社会のことたちまち同人始め数名の者が寄集って小野を殴打した。小野は逃げ出したが、道に迷い海中に飛び込んでしまった。しかし、同人は遊泳を知らず深みに嵌ってあわや溺死するところを付近の者が駆付け救助したもので、体に何の異常も無く引き続き稼いでいる。しかし、種々の風説が喧しいので、佐藤青山の両刑事が現場に出張し関係者一同を引致し取り調べたところ、以上の始末と分かった。このため、根本のみ拘留七日に処し、他は安武署長が親しく説諭を加えて放して遣ったとのことである。

 前年の明治40年12月、秋田から移住してきた小林一家(当時多喜二4歳)が言っていた「タコ部屋」とは、このことだったんですね。

カセグ人タノム 一千人
  但し一日の給金六十銭以上一円五十銭まで
  仕事場は小樽築港埋立直営工事
  小樽若竹 土工供給 中山事務所
(小樽新聞 明治四十一年五月九日/中山事務所広告)

 小樽の近藤工業(小澤榮社長)が、この度「小樽、釧路などの港や水道の整備に尽くした技師関屋忠正と請負師中山惣次郎」を出版してくれたおかげで、小樽という街のインフラがどのように構築されてきたかがより鮮明になった。それだけでもありがたいのに、多喜二の幼少時の「タコ部屋」記憶がどのように小説に作用しているかといったおまけまでつきました。

 棒頭が一人何かどなりながら、坂を走って行った。
 もう一人が、半纏を脱ぎすてると、棍棒をもって、走って続いた。百人近くの土方が、急にどよめいた。何か知らないが、とにかく何んでもいゝ、それを口実にして五秒でも(五秒!)三秒でも(三秒でも!)手を休ましたかった。
「何してる、馬の骨!」
 棒頭は、それを見ると、殺気だった。
 誰かが向うで殴られたらしい。ボクン、直接に肉が打れたる音がした。
 堅田は半纏の袖で顔一杯をグルリとぬぐうと、「畜生!」と、心でギュッと心をかみしめた。
「やれ/\、うんとやれ、今に見ろッ!」
「どうしたんだい。」
 隣りが手を休めないで、話しかけた。
「けつをわったべよ。」
 隣りは心をグッと肱でつかれたように息をのんだ。どの土方もそれに飢えてるんだ。
「こったら時か?」
「何時だってえゝよ。こったら所にそう/\いられるかッ、阿呆。」
「今つかまるさ。」
(小林多喜二「監獄部屋」)

 明らかに若竹の「タコ部屋」話なのに、なぜ舞台を釧路に移して描くのだろう(直接に小樽の名を出すのは差し障りがあるのか…)と思っていたけど、なんのことはない、「中山惣次郎」をはっきり想定していれば釧路の「監獄部屋」で全然問題ないわけだ。

 それにしても、近藤工業の「関屋忠正と中山惣次郎」の出版は大きい。甘っちょろいプレカリアートの解説本なんかより、はるかに多喜二的なメンタリティ構造を明らかにしてくれる。「小樽築港の礎技師青木政徳」(2006年)、「小樽と大連の港づくりに尽くした技師内田富吉」(2008年)に続く三作目。一企業が自費でこういう資料を発行し続けることには本当に小樽という街の底力を感じる。行政がまるっきり盲目でも、このバランスで街は生き残って行くのだろう。