五月の後志 (二) |
去年の夏、私は北海道で二ヶ月ばかり暮らしました。別に目的のある旅でもなかつたけれど、山や湖を見て暮したいと思つてゐましたし、小さな避暑地でなまけて暮すのも厭だつたので、まだ見たことのない北海道へ行つてみようと思ひたつたのです。 ――津軽の海を越え函館へ着きますと、私は札幌行きの汽車へ乗つたのだけれども、途中気が変つて倶知安といふ小駅へ降りた。 (林芙美子「江差追分」) 林芙美子。昭和5年に「放浪記」を出版。その売り上げは60万部のベストセラーとなりました。当時の60万部は、今なら「1Q84」クラスの驚異的なベストセラーです。今ではすっかり「放浪の作家」イメージで塗り固められてしまった林芙美子ではありますが、彼女の文学的スタートはじつは詩人。昭和4年、26歳の時に処女詩集「蒼馬を見たり」を親友・松下文子の資金援助で刊行しているのです。女性詩人なのでした。 なんとなく、その詩人としてのスピリットを、この昭和9年の初めての北海道旅行にも感じることがありますね。5月20日に東京を発った彼女は、盛岡、青森を経て25日に青函連絡船で函館に到着。「えっ!」と思うのは、そこから。なんと、彼女は函館をそのまま通過して、その日のうちに倶知安へ入るのです。なぜ、倶知安? 倶知安には何があるの? |
真夜中の 倶知安駅に下りゆきし 女の鬢の古き痍あと (石川啄木「一握の砂」) 倶知安に「ナニカアル」としたら、おそらくはこれだろうと私なら思います。 翌朝は不幸なことに曇つてゐた。九時十五分の汽車で根室線に這入る。 (中略) 朝から汽車へ乘りづめ、しかも此根室線には急行がないので、一驛一驛私は野原の中の驛々にお目にかゝれる。 (林芙美子「摩周湖紀行―北海道の旅より―」) やはり啄木だったのではないか…と思わせるのは、この展開。「札幌は私にはそんなに興味なし」(6月1日夫宛葉書) 旭川の松下文子との再会。樺太への大旅行を終えて、彼女は東京への帰路を考えていたはずなのです。豊原から投函した夫宛の手紙にも「一路かへろうと思っております」と書いている。ところが、どうした心変わりなのでしょう。芙美子は帰り道の滝川で根室本線に乗り換えてしまうのです。滝川駅。 空知川雪に埋れて 鳥も見えず 岸辺の林に人ひとりゐき (石川啄木「一握の砂」) 釧路へ着いたのが八時頃で、驛を出ると、外國の港へでも降りたやうに潮霧(がす)がたちこめてゐた。雨と潮霧で私のメガネはたちまちくもつてしまふ。帶廣から乘り合はせた、轉任の鐵道員の家族が、町を歩いて行つた方が面白いですよと云つて、雨の中を子供を連れた家族達が私を案内してくれた。 (同書より) 釧路。当然、彼女の心には「さびしき町にあゆみ入りにき」、あの歌が流れています。 啄木の唄つた女のひとは昔小奴と云つたが、いまは近江じんさんと云つて、角大と云ふ宿屋を營なんでゐた。新しくて大きい旅館で、舊市街と新市街の間のやうなところにあつた。おじんさんは四十五歳だと云つてゐた。小奴と云ふ女のひとを現在眼の前にすると、啄木もそんなに老けてはゐない年頃だつたと思ふ。生きてゐたら、たしか五十歳位ででもあらう。誰でもひとゝほりは聞くであらう啄木との情話よりも、啄木が優しい人であつたと云ふ、何でもない話を、私は大事にきいた。おじんさんは大柄で骨ばつた人であつたが、世の常の宿屋の主のやうにぎすぎすしたところがなかつた。美しい娘さんの寫眞を持つて來て、亡くなつてしまつたのだと嘆いてゐたけれど、誰でもが聞くだらう啄木の思ひ出話よりも、娘の話をするおじんさんは、何となく私には好ましかつた。 (同書より) 「放浪記」の林芙美子にはそんなに興味はないけれど、こうした北海道放浪の林芙美子には興味ありますね。大切な大切な初めての北海道を、こういう風に使う人を大変好ましく思う。「くつちやん」駅ホームに佇む写真もグッド。この旅の取材をもとに書かれた「七つの燈」「田園日記」も、心して読ませてもらいます。 青き山なり ニセコの山は 吾心また青々 心涼しむ 倶知安のひらふ高原中央公園。林芙美子文学碑。昭和9年5月、倶知安を訪れた林芙美子がその印象を色紙に残した文を碑文としたもの。 |