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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の後志 (一)
 
 

【5月22日】 与謝野寛、与謝野晶子来道
 1931年、北大での講演のため、二人で連絡船「松前丸」で来道。10回ほど学校、団体で講演した。函館、小樽、札幌、定山渓、旭川、層雲峡、白老、登別温泉、室蘭、洞爺湖温泉と歴巡、6月7日退道した。
(北海道新聞社編「北海道の出来事365日」より)

 この、スワン社資料室の「今月の小樽」シリーズ。昔はタネ本に道新が編集した「北海道の出来事365日」をよく使っていました。毎月パラパラとめくっては、「ふーん、この与謝野夫婦が来道した5月22日は、藤村操が日光華厳の滝に投身自殺した日でもあるんだ…」とか、いろいろ思わぬ知識を仕入れていたわけです。でも、平成6年の出版ということもあって、年々、最新データとの乖離が大きくなってきていて、さらに、平成19年の北海道新聞小樽後志欄が「今日は何の日」を一年間連載したこともあって、ここ数年は本棚で休眠中でした。ちなみに「今日は何の日」では、与謝野夫婦来道はこう扱われています。

【きょうは何の日/5月29日】 与謝野晶子が死去
 一九四二年(昭和十七年)五月二十九日、歌人与謝野晶子が死去した。享年六十三。遺稿集「白桜集」にちなみ、白桜忌ともいう。
 晶子は一三年、夫妻で道内を旅行しており、その間、小樽には何度か足を運んだ。小樽新聞は連日、一挙手一投足を報じている。
 今の小樽商大で講演したり、名士との午餐会に出たりと忙しく過ごしたようで、同年五月の同紙では、北海道の印象を「山のありやう、樹々の並ぴなどとてもシベリヤの感じ」と語っている。
 石川啄木と親交があった晶子、同じ紙面で「啄木は小樽の人に歌は無いと言つたさうですが、さうでもなささうに思はれますね」とも言っている。持って回った言い方は、歌人の感性のなせる技か、単にリップサービスだからか。

 ま、リップサービスかな… セールス活動も順調なようですね。来道後、建った歌碑の多さがそれを証明しているような気がします。

 浜菊を郁雨が引きて根に添ふる
 立待岬の岩かげの土  寛
 啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじ
 はこだてのこと  晶子
 (函館・立待岬)

 有珠の峰礼文の磯の大岩の
 ならぶ中にも我を見送る  寛
 数しらね虹となりても掛かるなり
 羊蹄山の六月の雪  晶子
 (豊浦町・文学碑公園)

 船つけば向洞爺の桟橋に
 並木を出でて待てるさとびと  寛
 山畑にしら雲ほどのかげらふの
 立ちて洞爺の梅さくら咲く  晶子
 (洞爺湖畔)

 パパッと身のまわりに思いつくだけでもこんなにあります。そして、この後志にも、与謝野晶子歌碑が。

 六月に雪残りたる羊蹄の水色の襞うつくしきかな

 この倶知安の歌碑、存在は知っているのですけれど、見たことはありません。個人の家の敷地内に建っているらしく、以前(せっかく近くに住んでいるのだから…と)探したのですが、よくわからなかった。