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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の小樽 (一)
 
 

 小樽で誕生した北門新報が札幌に進出したのとは逆に、札幌に生まれて小樽に移った新聞が大成した。それがやがて北海タイムスと長く競り合った「小樽新聞」である。
(北海道新聞三十年史)

 うーん、さすが新聞記者。書き方、うまい! 「小樽新聞」のことを、まず一発目でこうふられると、読み続けないわけにはいきません。
 なぜ、北海道新聞が「小樽新聞」の歴史を三十年史に含めて書いているかというと、結局、啄木の関わった「釧路新聞」にしても「小樽新聞」(啄木は「小樽日報」ですが…)にしても、太平洋戦争の国策下で「北海道新聞」一本に統合されてゆくからなのですね。いわば、「小樽新聞」は「北海道新聞」のかけがえのない前史にあたるのです。

 その「小樽新聞」、スタートは札幌の雑誌でした。

 明治二十六年五月八日、阿由葉宗三郎によって札幌に発刊された「北海民燈」は、はじめ月一回発行、菊判四十ページの雑誌であったが、この年十一月一日の発行から週二回のタブロイド判四ページの新聞に改めた。阿由葉は北海道毎日新聞の社員であった関係から、阿部宇之八の援助により印刷を北海道毎日新聞の附属工場で行なっていた。そのころの小樽は前述のようにせっかく誕生した北門新報が札幌に移って新聞空白の状態にあった。ここに着目した阿部は阿由葉にすすめて北海民燈を小樽に移した。それは創刊の翌年六月のことである。このとき民燈の経営に当たったのは北海道毎日新聞の編集助手をかねながら同紙の編集長であった上田重良であった。
(同書より)

 出た!上田重良…

 当時の北海民燈は負債をひきうけていた阿部の所有となっていたが、上田はこれを経営しやがて小樽の山田吉兵衛(北海新聞の創立者)、渡辺兵四郎、高橋直治ら有力者の協力を得て集めた資金一千円を投入、同年十一月「小樽新聞」と改題のうえ日刊とした。これにより経営が好転したので上田は阿部から一切の権利をゆずりうけて小樽新聞を自立させ、その育成をはかった。
(同書より)

夕方本田荊南君に誘はれて寿亭に開かれた社会主義演説会に行つた。会する者約百名。小樽新聞の碧川比企男君が体を左右に振り乍ら開会の辞を述べた。
(石川啄木「明治四十一年日誌」/一月四日)

 啄木と小樽新聞記者たちとの交流は小樽日報社在籍時から始まっていると思いますが、日報社を辞めてからは一層頻繁になっているようです。公然と日記にも「樽新」関係の名前が出てくる。さすがに(格がちがうのか)明治40〜41年日記に社長の上田重良の名は出てきませんが、興味深いのは、啄木の明治44年日記。その住所録。

札幌区、北一、西十三ノ一  大島経男○△
石狩、空知郡北村第二区、北村農牧場事務所  北村智恵
札幌区北七、西四ノ一    坂牛祐直○△
小樽区、真栄町三九、白鳥方 桜庭ちか
釧路町天寧         吉野章三○△
函館区、青柳町三六     岩崎正○
小樽、港町小樽新聞社内   本田龍(荊南)
小樽区、花園町十三、    澤田信太郎○△
小樽区、南浜町六ノ一 旭川歩兵二十六レンタイ第二中隊第五班 高田治作 △
小樽区南浜町、濱名方    藤田武治○△
小樽区花園町十四、     佐田庸則○△
函館区東浜町三二      斉藤哲郎○
札幌区北八、西五ノ一    向井永太郎○△
小樽区稲穂町畑十四、    上田重良○△
室蘭町札幌通山中事む所   岩本實 △  坪仁 △

 これは、啄木の「明治四十四年当用日記」の「住所人名録」より北海道関係部分を全員抜き出したものなのですが、日報社関係より樽新関係の名の方が多いことには少し驚きます。しかも、上田重良や坂牛祐直といった大物の名が入っていることも驚きなのです。(個人的には「北村智恵」「桜庭ちか」「坪仁(小奴)」の名よりびっくり…) 明治44年は死の前年。すでに「一握の砂」は世に出ており、小樽新聞社内で啄木再評価みたいな流れがあったのだろうかとも感じますし、それとも、単なる新聞業界のつながり(当時啄木は東京朝日新聞社の社員)だったのかとも考えられますが… なかなか興味深いところです。もう少し、当時の小樽新聞などを読み直してみないとなんとも言えませんね。

「わが社五十年の歴史は、新聞永劫の紙令に考うれば、必ずしも永しとしないが、幾多の思い出は読者とともに尽きないものがあり、懐しき語り草の数々は尠しとしない。しかし、時局は徒らなる追憶と感慨に耽るを許さず、一切の懐古的情想を払拭し、利害情実を超越して勇躍新発足につかねばならないのである。」
と、終刊の辞を読者に告げ、一万六千七百二十五号をもって輪転機はとまったが、朝刊五版建て、夕刊三版建て、小樽市内版のほか、札幌版、上川留萌宗谷版、石狩空知版、東北版、道南版、樺太版、綜合版を発行、その発行部数は九万部に達していた。
(北海道新聞三十年史)

 やはり、大新聞社だったんだなぁ。九万部は凄いよ。