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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



四月の札幌
 
 

 バチェラー学園竣工の翌年、1925(大正14)年4月26、27の両日、田上は「田上義也建築作品展覧会」(時計台)を開催し、建築家・田上義也の存在を世に問うた。これには橋浦泰雄の日本画一七点が賛助出品されている。
(井内佳津恵「田上義也と札幌モダン」)

 昔は、田上の作品展なのになぜ橋浦泰雄の絵がかかっているのか、その意味がよくわからなかった。北海道における田上作品の最初期なので出品する作品数が足らなかったのかな…程度の認識だった自分が恥ずかしい。
 「自分はこの企てに快く賛助してくださった橋浦泰雄兄の友情、ならびに精神的物質的に援助してくだすった小谷義雄氏はじめその他の友人諸氏に深謝をささげる」と田上自身が述べている通り、橋浦の兄・小谷義雄の経済的バックアップが大きな要因だったのですね。井内さんの本は田上義也の独特な建築がどのような交友関係の中で札幌に広まっていったかを詳細に辿っており、とてもありがたい。どういう風に田上のデザイン・センスが札幌のデザイン・センスとして浸透して行ったかがなんとなく空想できるような気がして、読んでいてとても楽しい。
 それくらい、札幌の子どもにとっては、田上のデザイン・センスというのは街中に広がっているものでした。別に、北一条教会の前を毎日通学していたとかそういうことではないのだけれど(もちろん田上義也という存在など全然知りません)、一種、空気みたい感覚で、田上の建築が街にあることを街も喜び、人も喜ぶ街だったような記憶があります。(大人になってからの知恵で美化捏造された子ども時代の記憶かもしれないが…)

 この第一回建築展中で現存しているのが1925(大正14)年の高田治作邸(小樽市富岡現・江口邸)である。高田治作(1891−1955)は小樽生まれ。石川啄木の小樽日報社記者時代(1907年10月−1908年1月)に親交を結んだことで知られ、啄木の「あはれかの眉の秀でし少年よ弟と呼べばはつかに笑みしが」は高田を詠んだものだという。
(同書より)

 高田治作の号は「紅果」。明治四十年、小樽日報記者として来樽していた石川啄木を訪ねていった少年。初代の小樽啄木会会長。保険代理業の奥田商会に勤めるかたわら、小樽の文芸雑誌に作品を発表するほか、演劇にも傾倒し、大正半ばに発足した「啓明会」という文化人の啓蒙的なグループの幹事もつとめた。約十年くらい続いたというこの会には有島武郎、早川三代治、木田金次郎らが関わっており、高田と木田はともに小樽啓明会員を主力とする美術グループ「緑人社」メンバーとしても活動したという。井内さんは、田上義也と高田紅果の出合いは、先述した画家・橋浦泰雄の存在を介した有島人脈による可能性が高いのではないだろうかと言っています。
 
 

 田上の民家建築第一号作品である高田邸。区画整理で、改築増築で、そして火災でと、どんどん姿を消しつつある田上建築。その中で、第一号作品が現役(今なお普通に家族が暮らしている)の姿で残っているというのは、私に言わせれば奇跡に近い出来事に思えます。でも、旧高田邸がすごいのはそれだけではありません。旧高田邸は美しいのです。私はそう思う。田上のつくった民家建築の中で、いちばん美しい、と。
 田上に言わせれば、「日の光にめぐまれし応接の窓に映る海面の帆影は/シンドバードの船のモチーブと波しぶき」(雑誌『さとぽろ』1928年8月号)という表現になります。私に言わせれば、それは「傾斜」という言葉になる。高田邸設計図の脇に描かれたイラストが雄弁に物語っています。札幌の田上建築のどれが、このようなアングルから描かれるだろうか。こういう建築への視線は、たぶん、小樽でしか実現し得ないのです。坂の街ゆえの肉体的特権とでもいえばよいのでしょうか。
 燃えてしまった坂(ばん)邸は崖の上のお屋敷だけあって、このアングルは旧北一条教会クラスの最強でした。個人の敷地ゆえに遠くからしか見ることができない旧瀬川邸ですが、アングルは、この高田邸の角度に非常に酷似しています。旧坂牛邸は、このアングルの逆バージョン。小樽公園から見下ろす角度が美しい。小樽に残る田上建築は、どれも皆、美しい。