四月の小樽 (三) |
翌年、私は春休みを利用して小樽の山に入った。銃も単発の散弾銃から、おじにもらったライフルに替わっていた。主峰、余市岳に連なる一〇〇〇メートル級の山々である。幼いときから父に連れられて歩いているので、山や沢のつながりは熟知していた。日曜ハンターであった父についてウサギ、カモ、シカや羆猟を経験していたが、今回が初めての単独での羆猟だった。 朝里川温泉のどんづまりに車を置き、そこから一ニキロほど歩いた山中に装備を担ぎ上げべースキャソプを張った。(中略) その沢の途中に鼻のように突き出した尾根がある。ゴツゴツとした岩尾根だ。私はこの尾根に子供のころからインディアン岩というあだ名をつけていた。横から見るとインディアンの顔に似ているような気がしたからである。この尾根の突端は広く大きな沢のほぽ全体を見渡すことができる数少ない場所だ。そこを中心にして、三カ所ほど、尾根の陰も見える場所を見張り場にする。これらを一回りすると六キロほどになる。一日二回ほど見回り、熊が穴から出るのを待つ。 (久保俊治「羆撃ち」/インディアン岩) この、冬眠から醒めて穴から這い出てきた羆を撃つ猟は定番らしく、吉村昭の小説「熊撃ち」にも同じ猟法が出てきます。 かれは、毎年自分の発見し確保した羆の穴を丹念に見てまわる。三歳以下の羆は、前年の冬すごした穴にもどることが多いが、四歳以上の羆は警戒心が強く決してもどってはこない。また三歳以下の羆は、他の羆が冬をすごした穴に入ることもある。つまり一つの穴を確保しておけば、異った羆がもぐりこんでいるのを発見することがある。 そうした事情から、かれは、十四年の間に一つの穴で連続的に計四頭の羆をしとめた経験ももっていた。猟師たちは自分の所有している羆の穴を、他人にさとられまいと神経をはたらかせている。アイヌの猟師は、 「同じ穴に羆は二度と入らぬ」 といったりしているが、それは穴を自分一人のために確保しておきたいための口実だった。 (吉村昭「与三吉」) どちらもいいですね。一字一句、書き写しているだけで、身体中がぞくぞくしてくる。私のどうでもいいコメントなんか、いらないくらい。ただ、吉村昭の「与三吉」には、もうひとつ、おもしろい場面があるので、そこを引用させていただきます。 与三吉は、羆を求めて山を歩きつづけた。米も少くなったが一回の食べる分量を減らして野宿を重ねた。十日の予定が、二十日近くになった。かれは、札幌郊外の山に足をふみ入れてから遂に倶知安の近くまで歩いていった。途中、雪崩の危険に身をさらされながら峯を越え、谷を渡った。が、熊の姿も足跡すらも発見できなかった。 倶知安の町におりたかれは、半病人に近かった。足は今にも崩折れそうで、体中が熱をおびていた。かれには、再び歩いて帰る気力は失われていた。意識がかすみ、銃を肩にしていることすらわずらわしく思えた。かれは、.自分が正常な気持を失っていることに気づいていた。 (吉村昭「与三吉」) 札幌の定山渓〜無意根(むいね)岳を越えると、そこは京極町〜倶知安町なのです。現在、京極町の本倶登山(ポンクトサン)に北海道電力の揚水式巨大ダムが建設中ですが、この工事現場には、毎年何人か、無意根岳〜空沼岳の縦走からルートを外した登山者が降りてくるそうです。久保俊治が入り込んで行ったインディアン岩から向こうが余市岳〜定山渓ライン。この辺の山々は、札幌−小樽−倶知安の三角形の中に広がっているのですね。さあ、待ち焦がれた春。私も、なんだか、フチやムクみたいな犬を連れて外歩きがしたくなってきた。ちょっとだけ。 |