四月の小樽 (二) |
あのとき私は国会選挙のために北海道へ行ったのだ。けれども小樽へは、小林多喜二のお母さんを訪ねるために行ったようにおもう。同行してくれる人も、多喜二の家へは初めてということで、とにかく朝里という駅へ二人は降りた。もう夜の九時を過ぎていて、しかも四月だったのに、雪が降りしきっていた。親切な人がいてその家の前まで案内してくれたが、歩いてゆく道も雪に埋まって、一足々々ふみ込んで歩いた。海岸に面している道で、雪の降りしきる闇の中に波のとどろきが伝わっていたが、私には自分の踏む白い道が見えるだけであった。 (佐多稲子「小樽の町のきれぎれの記憶」) なんで、小樽築港駅まで行かないで、朝里駅で降りたのだろう。よくわからない。 次の朝、多喜二のお母さんたちのもてなしで、ほっけのお汁をよばれたが、戦時中の東京の配給では決してうまくはなかったその魚が、この土地ではまるですずきの潮煮のようにおいしかった。ほっけのお汁を多喜二が好きだった、とお母さんはいい、私たちにもてなすことを自分でも喜んでいられた。 (同書より) 多喜二の母。 あーまたこの二月の月かきた ほんとうにこの二月とゆ月か いやな月こいをいパいに なきたいどこいいてもなかれ ないあーてもラチオて しこすたしかる あーなみたかてる めかねかくもる (三浦綾子「母」) 「二月の小樽」でご紹介しようと思って用意した文章なのですが、なんか切なくなって、その時は使うの止めました。今回、佐多稲子の文章はたいしたことのない文章ですが、多喜二の母が描かれているのもなにかの縁かとは思い、こちらに引用させていただきます。おそらく、三浦綾子の「母」を使うのは、これが最後です。 |