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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



三月の後志 (一)
 
 

 昭和十八年三月六日夜、当時倶知安町警防団長だった木太善吉は語る。

 ちようど親戚の娘が遊びにきていたので家の女中と一緒に映画に行かせてまもなく、女中が“たいへんです”と顔色をかえて帰つてきた。どうしたのだと聞いたところ火事だとは言うのだが、すつかり興奮して場所も言えない。やがてサイレンがなりようやく布袋座ということがわかつた。ただちに本部にかけつけ、消防部長に指揮をとらせて現場に行つた時ほもう手がつけられず、家よりも人が心配なので“中に人はいないのか”と聞いたところ“全部出た”と言うものや“半分くらいでた”という人でまちまち。となりの屋根づたいに裏にまわつて見ると、かすかに“助けてくれーッ”という悲槍な声が聞こえた。まだ残つていることがわかつたので、舞台裏の屋根をつき破らせたが、火は裏までまわつていて物すごい煙と火がその穴から天にのぼつた。しばらくして声はまつたく聞こえなくなり、建物もくずれおちた。
(倶知安町史/第七節 太平洋戦争のまち)

 昭和十八年三月四日、町で一、二を誇る料亭「喜楽」の火災があって二日しか経っていない六日の夜、またしても無気味なサイレンが夜の倶知安の町をゆり動かしました。火元は映画館布袋座。その日、午前中は産業組合から農業会に組織がえした記念式典。午後から記念招待映画会。映画は昼・夜二回にわけて上映されました。戦争になってから、映画も余り見れなくなった近郊集落の人や、市街の人が押しかけ、映画館の中はおよそ六、七百人の人でぎっしり。
 夜の部最初のニュースが始まってまもなくの午後七時ころ、観衆の頭上に、突然異様なものが飛び散りました。赤い火のついたフィルムが、なおも燃えながら、頭の上を走っているのです。「火事だ!」と一斉にに立ちあがる観衆、先を争って入口に殺到する若者、一瞬にして、娯楽の殿堂は阿鼻叫喚の巷と化しました。
 可燃性フィルムだったので火の手は見るまに広がり、発火元の一階入口近くの映写室から二階に抜ける階段はたちまち火の海。一階の非常口や窓という窓は三メートル近い雪にとざされていて、入口だけが唯一の逃げ場だったので、逃げおくれた観衆はだただ右往左往するばかり。助けを求める声、肉親を呼ぶ声、そして悲鳴が、雪と火におおわれた館内で空しく高くなり、低くなりして消えて行きました。小屋の中でもえ広がった火は、たちまち二百八人の尊い人命を奪ったのです。

 あとでわかつたのだが、開くようにしていた窓も屋根の雪が落ちてふさがり逃げ場がなくなつたようだ。火が消えたあと、すぐ死体をはこびだした。死体は三ヵ所にわかれていて、右側に七十人位、真中に百十人位、左に二、三十人がかたまつて死んでいた。右と真中の人は窒息死、左の人は焼け死んでいた。窓から逃げようとして建物と雪の間にころげ落ち焼け死んだ人も五人くらいあつた。とにかく、まともに見ることのできない悲惨さだつた。
(同証言より)

 まさに、大惨事。記憶に新しいホテルニュージャパンの火災(1982年)でも、死者は33名。負傷者を含めても77名という規模を思う時、「208人」の死亡者数には慄然とせざるをえません。建物単体の火災としては国内史上、最悪。これだけの大惨事にもかかわらず、全国的なニュースにならなかったのは戦時中であったからと北海道新聞は書いています。