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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



三月の小樽 (五)
 
 

 すべての猟が二月一五日で終了すると、春熊猟の始まる三月末まで山暮らしの生活は一時休みとなる。小樽の実家に戻ることにした。
 人の声、顔。街の音、車の音。それにテレビ。懐かしく珍しく思えるのも最初の数日問だけだ。すぐに飽き、うるさく感じられてくる。尾根を渡る風の音、テントを揺する吹雪の音、増水した川の音をそんなふうに感じたことはない。街に一、二週間もいると音の多さに、耳に栓をせずには寝られない。街に充満するドブの匂い、食べ物の匂い、人の匂い、排気ガスの匂いで鼻の付け根から眉間にかけて痺れたように痛くなる。ハンターを生業とするようになって以来、山暮らしで、感覚が鋭くなってきているようだ。いつのまにか時計も使わなくなった。陽の高さと、自分の体内時計で何も不自由を感じない。特に聴覚と嗅覚が敏感になった。
(久保俊治「羆撃ち」)

 どこかのHPにも書いてあったことですが、この久保俊治氏が小樽商大を卒業した1970年代初頭で、すでにマタギとして生きる決心をしていた人間がいたことには驚かざるを得ません。あの高度成長絶頂期の時代、革命幻想に浮かれ騒いだ記憶を持つ者ならば、この久保俊治氏の選択(感覚)がいかに特異なものであるか、思い知らされずにはいられないのです。
 そういう人間が小樽に生まれたことにも驚きますが、小樽以外の場所で生まれた可能性を考えられるかといわれれば、そんな可能性は感じたこともないというのが本音です。やはり、それは小樽。「耳に栓をせずには寝られない」ような中途半端な都会でしか生まれない、それは感覚なのだろうと思います。

 「羆撃ち」という本が衝撃なのは、羆を追って往(ゆ)く道ではありません。斃して還る道の思弁が私の胸を撃つのです。

 歩きながら思いが追跡していたときのことになる。そして、生命、生きることと、とりとめもなく移っていく。自然の中で生きるものの価値とは何だろう。生命とは死とは何なんだろう。
 そうか、死だ。自然の中で生きた者は、すべて死をもって、生きていたときの価値と意味を発揮できるのではないだろうか。キツネ、テン、ネズミに食われ、鳥についばまれ、毛までも寝穴や巣の材料にされる。ハエがたかり、ウジが湧き、他の虫にも食われ尽くし、腐って融けて土に返る。木に養分として吸われ、林となり森となる。森はまた、他の生き物を育てていく。誰も見ていないところで死ぬことで、生きていた価値と意味を発揮していく。

 羆の死。

 それでは、この熊のように、自然のサイクルを外れて、獲物となって斃れたものの生きてきた価値と意味はどうなるのか。だから私は、斃し方に心がけ、解体に気を配る。肉となって誰に食べられても、これは旨いと言ってもらえ、自分で食べても最高の肉だと常に思える獲り方を心がけ実行しなければならない。斃された獲物が、生きてきた価値と意味を充分以上に発揮するように、すべてを自分の内に取り入れてやる。私の生きる糧とするのだ。
 山での姿も、撃たれ斃れていった姿の細部までも目の奥に焼きつけ、決して忘れないで覚えていこう。それが猟で生活しようと決心した者の、獲物の命に対する責任の取り方だろう。