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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



三月の小樽 (四)
 
 

 しばらくして中野の家を訪ねると、まだ留守であった。ところで、小樽署の調べでは、掏(す)られた松井博士の名刺には、裏に住所が書いてあり、また平沢大ワ自身は、帝銀事件前後、一月二十一日から同二十八日までは、日本橋三越で開かれていた、日米交歓水彩画展の会場に毎日行っていたと言っている。人相も角張った顔で、犯人の人相には似ていない、という報告が三月二日に届いた。その後も平沢方の留守宅を調べたが、雪景色を描きに行ったから、四月に帰るだろう、という答で、五月に訪問すると、こんどは父の病気が悪化したので、帰京は延びるかもしれない、ということだった。
(松本清張「小説帝銀事件」)

 数ヶ月後、帝銀事件犯人として逮捕されることなど思いもよらない平沢貞通が、故郷の小樽に戻って描こうとしていた「雪景色」。市立小樽美術館の主任学芸員・星田七重さんが詳しく解説してくれます。

 平沢が逮捕される1948年の直前、彼の画業の最後に位置する「地平清明」(46年)は、現在の札幌市手稲区前田の風景である。重たい雪に覆われた北海道の原野。裸木のほかには何もない。地平線で空と大地を分けたこの広々とした風景は、戦前の帝展時代に認められた一連の作品に通じている。
 急激な人口増で宅地化が進んだ現在の手稲前田からは想像もつかないが、この地名は加賀藩主前田家が開いた前田農場に由来し、平沢の父はこの農場に雇われたのだった。幼くして移住した平沢は、この完壁な地平線を目に焼きつけ、後年「この平原に抱かれているとき、私は真に幸福だ」と記している。
(北海道新聞 2010年3月14日 小樽しりべし欄/連載「水彩画の地平−平沢貞通と小樽」最終回「地平清明」)

 焼け野原となった東京を離れ、平沢貞通は家族と北海道に疎開し終戦を迎えた。息子たちも戦地から無事帰還し、生きていることの喜びをかみしめた。
 新文展無鑑査の平沢は、戦時下では軍命に応え、制約を受けながら不本意な制作を続けるしかなかった。戦後、中央画壇での再出発を期して選んだのは、以前から手がけていた北海道の「地平線の風景」だった。自分本来の画業に回帰しようとしたのだ。
(同記事より)

 帝銀事件。終戦から間もない昭和23年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で発生した毒物殺人事件。銀行の閉店直後の午後三時すぎ、東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人に青酸化合物を飲ませた。その結果12人が殺害された。犯人は現金16万円と、安田銀行板橋支店の小切手、額面1万7450円を奪って逃走。現場が集団中毒の様相を呈していたため大混乱が生じ、初動捜査が遅れ、犯人の身柄は確保できなかった。
 その犯行手口の、おそらく終戦直後の世相でなければ考えられないような荒唐無稽さ、残忍さ。また、毒薬の扱いに熟知した犯人の手際から、捜査は旧陸軍細菌部隊(七三一部隊)関係者や特殊任務関与者を中心に進められていたが、突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられてしまう。
 そんな中で急浮上してきたのは、捜査の脇役的存在でしかなかった「厚生省技官の名刺」であった。事件に使われたのは実在の人物「松井蔚」の名刺だが、松井は名刺を渡した日付や場所や相手を記録に残していたため、捜査本部は100枚あった名刺の行方を徐々に絞り込み、最後まで確認できなかった8枚のうちの1枚を犯人が事件で使用したと断定。そして8月21日、松井と名刺交換した人物の一人であるテンペラ画家の平沢貞通を北海道小樽市で逮捕する。

 長く辛い戦争が終わり、多くの画家が作風に変化を見せるなか、平沢の場合は中断していた題材に立ち返り、完成に至らせようとした。このとき“日本にて地平線画家 われ一人”の自負とともに、自分にしか描けない絵を描こうと決意していたに違いない。
 しかし平沢の戦後の展開を見ることは不可能である。外界と遮断された獄中生活で、自然を写生することもなく、獄中画は旧作とは別種のものとなった。画壇からその名は消え、帝展、日本水彩画会展などの出品画の大半が、いまだ所在不明である。
(同記事より)

 平成22年2月、市立小樽美術館にて「小樽・水彩画の潮流〜平沢貞通・埋もれた画業の発掘」展が開かる。「地平清明」も、そこにひっそりと架かっています。