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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



二月の小樽 (一)
 
 

命の輝き海青白く 小樽の海岸 ニシン群来
【小樽】ニシンの豊漁が続く小樽市の沿岸で9日午前、産卵のために前浜に寄った大量のニシンの雄が放出した精子で、海面が乳白色に染まる「群来(くき)」が確認された。小樽市漁協によると、今季初めて。同市船浜町の沿岸で、海岸線1キロ以上にわたり、幅200〜300メートルの海面が青白く変色した。(中略)
 道立中央水産試験場(後志管内余市町)によると、小樽沿岸の群来は、最近では2008、09年に計9回確認されている。
 両年とも最初の群来は2月20日ごろといい、「それに比べれば今年は、10日程度は早いようだ」と話している。
(北海道新聞 2010年2月10日)

 10日の朝刊1面中央には、ニシンの「群来」により海面が青白く染まった小樽市船浜町午前9時45分の写真が。たしかに2月9日は異常に早い。まだ、ヤン衆の連中、東北から集まってきていません…
 というのは冗談だけど、それくらい鰊漁というのは後志の人たちにとって遠い昔の思い出話ではあったのです。三年前までは。

 鰊の季節が近づくと、誰も彼もが落付きなく沖のほうばかりを見るようになり、魚群到来となるとたちまち小学校もお休みになる。先生も生徒もかねて用意のできているしょいこを背負って、浜へかけつけ、運搬の手つだいをする。たばこ屋も雑貨屋も本業などにかまってはいられない。みんな総出でさかなを運ぶ作業員となる。寝る間も惜しむから、もうろうとしている。
(幸田文「さびしい記憶」)

 だからこそ、三年前、私の家を真っ直ぐ降りていったところにある船浜町・熊碓海岸で「群来」が起こった時は本当にびっくりしましたね。ニシンが還ってきたんだ… 「群来」なんて、文献で読むしかない世界だと思っていたけれど、生きている内に目にすることができて、すごく幸せ。鰊曇りの海一面が白く濁るといった世界ではまだまだないけど、三年も続けば、これはなにかのはじまりなのではないだろうか。

 さらに、私たちの仲間には本物の鰊漁師が居た。
「札幌−小樽間の通学列車の窓から、数十米も離れていない張碓の岩場の海で、埋め尽くす鰊の大群に囲まれて、波と鰊の重さで左右に大きく揺れる舟の上で巧みにバランスを取って、アオバトの飛ぶ恵比須岩の傍から岸に向かっている漁師がいた。それが木村武彦君だった。
 入学した年、四寮で木村君と同じ部屋だったが、入学間もない日、彼は何日も休んで張碓の家へ帰っていたことがあった。疲れきった顔つきで寮へ戻ってきてそのまま寝てしまった。鰊が来ているんだ、とその時彼は言っていた。色白で一件華奢に見える彼だったが、その腕は太く力持ちだった。
 鰊が群來する海がミルク色に変わるのを海岸で現実に見たのは、戦後の昭和二十一年、札幌からの汽車通学を始めたった年だった。胴まであるゴム長を穿いた木村君の張碓の岩場での堂々たる漁師姿をその時初めて見た。
 後年、彼は言っていた。『鰊が来ると学校どころじゃなかった。目の前から鰊がいなくなるまで、毎日が戦場だった。獲った鰊はその場で仲買が全部買って行くから面倒は無かった。夜、家へ帰ってお札の勘定をするのだが、数え終わらないうちに眠くなって寝てしまった』と。
 学校の帰り、家から持ってきた石油缶に鰊を溢れる程木村君に入れてもらって、あの張碓の線路の上を駅まで歩いた道の遠かったこと。
 卒業して汽車通に縁がなくなった後は、鰊も二度とこの海岸にはやって来なかった」(北村昭三)
(HP「地獄坂余話」より)

 「地獄坂余話」。太平洋戦争末期、北海道の小樽高商(現在の小樽商科大学)へ入学した18歳前後の若者達が戦争そして敗戦という特異な背景の中ですごした3年間を感じたままに綴り、集めた…というホームページ。現在の小樽商大でも校歌として歌い継がれている高商校歌(時雨音羽作詞)の冒頭「金鱗おどる渺渺のあけぼの称ふ波の唄…」の「金鱗」とは「鰊」のことであると教えてくれたり、さまざまな「小樽」発見に満ちたすばらしいホームページではあります。