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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



二月の後志
 
 

「ちょっとお尋ねしやす。」
 源吉は敷居の外につっ立ったまま、にこりともせずまるで怒ってでもいるかのような調子で言った。「大丸たらいう漁場の事務所はどこかね?」
 人々はもうだいぶ酔っているらしかった。突然の闖入者に彼らは話をやめ、互いに顔を見合し、それから源吉の風体をさぐるようにじろじろと見た。
「あんさん、鰊場稼ぎなさるのかね?」
 源吉の問にはすぐには答えないで、問いかえしたのは、四十余りの屈強な漁夫であった。
「今っから旦那と契約すんのかね?」
「ああ、」
「そりゃ、遅かろうて、みんなもう、去年のうちにすんでいるべものな。」
(島木健作「鰊漁場」)

 源吉。親子五人の口をつなぐ飯米の最後の二俵を、親爺の留守のあいだに橇で町へ運ぴ出し、金に代え、それを博打のもとでに使い果してしまったのはつい一週間まえのことだった。じゃがいも、トウキビ、麦、稗、大豆の類を主食にし、その間にわずかに粥をすすって米の味をしのんでいる彼らにとって、その二俵はどうしても夏まで食いつながねばならぬ大切な食料だった。その命の綱をお決まりの骸子博打ですってしまう。源吉はそれっきり家へは帰られなかったのだ。
 練漁場のヤン衆たちの雇傭契約が、前年内に取りきめられる例であるということは、人におしえられるまでもなく源吉も知っていた。三月から五六月まで、農閑期を利用して練場稼ぎをする百姓たち。前年の十一月、十二月中に彼らは給料の前借をして出稼を契約し、その金で辛うじて越年する。二月は、もう東北や道内の各地からヤン衆たちが集まってきている時期だった。
 だが、源吉にも計算はある。

「鰊場かせぎしたこたアあんのか?」
 と訊いた。源吉は、ある、と答えた。それは嘘だった。渡道前、秋田の半農半漁の家に少年時代を過した彼は、浜の仕事はなんだっておんなじこととたかをくゝっていたのだ。男はうさんくさそうにじろじろみていたが、
「どこでよ。」
「余市の
の鰊場。」と聞きおぽえで出たらめを言った。
(中略) 漁夫たちが全部出揃い仕事がはじまるまでのあと一週間を、事務所に泊めてもらうことにした。毎年、青森から半分、道内から半分、「練殺しの神様」が募集される。しかし、いよいよ、監督に引率されて漁場に向って出発する迄には、逃亡者や、病気で来られなくなるものが二人や三人は必ずあった。従ってそれらの補充を見ておくことが漁場としては必要であったのである。
(同書より)

 昔、違星北斗を読んでいて、たとえば、「北斗は号であって滝次郎と云ひ、小学校は六年級をやっと卒業した。その後鰊場でのカミサマを始め石狩のヤンシュ等で働いた」(淋しい元気)といった箇所で、やはり、「カミサマ」「ヤンシュ」などの言葉につまづくわけです。まあ、「ヤンシュ」はたぶん「ヤン衆」だろうから、「カミサマ」も鰊関連の言葉なのだろうとか類推して読んで行くのですが、ある時、島木健作のこの「鰊漁場」を読んでいて突然「鰊殺しの神様」の言葉にぶつかったりすると、なんかずいぶん得したような気になったことを思い出しますね。(島木健作の読者としては邪道の読み方なのだろうが…)

 鰊ぐもりだ。
 北から西にかわった潮風は湿気をふくんで生温かかった。さむざむとした暗い海のいろにも緑の明るい色がさして来た。――北海道の西海岸は対馬海流の流域にあたる。津軽海峡の西方の沖合を走り、積丹半島をすぎ宗谷海峡にはいる対馬海流は、三月四月の間、漸く膨脹し来って春の気運のさきがけをする。気温はあがり、水温も五度−七度前後に上昇する。太平洋やオホツク海にあって年を経た春鰊は、その頃になると、大群をなして本島の西海岸さして「群来(くき)る」のだ。鰊に従って移動する鴎の群れがまずそれに先行する。空は連日乳白色にかきくもり、海の水は雄鰊の排出する白子のために米磨ぎ汁を流しこんだように青白色に濁ってくる。
(同書より)

 春浅き鰊の浦や雪五尺。さあ、群来だ。