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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



一月の小樽 (四)
 
 

 平成十一年一月三十一日、ジャイアント馬場、死す。

 それは、昭和三十五年(一九六〇)生まれの私が四歳のときのことですから、東京オリンピックが開催された昭和三十九年(一九六四)の話ということになります。北海道小樽市に住んでいた私は、両親に連れられて生まれてはじめて飛行機に乗り、東京の羽田空港に降り立ちました。当時はジェット機ではなくまだプロペラ機で、天候のせいもあったのかかなり揺れ、機内では「ずっと気持ちが悪かった」といった記憶しかありません。
 それでも空港に着いた私はすぐに元気を取り戻したようで、親の手を離して到着ロビーを走り出しました。そして、巨きな“なにか”にぶつかったのです。
 その“なにか”が何であるのか、四歳児の私には当然、わかるはずがありません。でも、背後で両親が「うっ」と息を呑んだ気配は伝わってきました。
 ぶつかってよろける私のからだは上から降りてきた巨きなもので支えられ、ふわっと軽く持ち上げられました。驚いた顔の両親を、上から見下ろす私。見上げると、巨きな顔とやさしい目がありました。
 「お嬢ちゃん、あぶないよ」
(NHK知るを楽しむ/香山リカ/私のこだわり人物伝「ジャイアント馬場」)

 香山リカが小樽の人だとは知ってましたが、「ジャイアント馬場」とこんな数奇な出会いをした人だとは知りませんでした。(うらやましー)

 私は昭和六十一年(一九八六)になんとか医師となり、札幌で研修医をしていました。その頃の最大の楽しみは、昼休みに病院のすぐ近くにある新聞販売店まで出かけてスポーツ新聞を買うこと。薗田、ブロディの事故を知ったのも、その“新聞タイム”にでした。いつもは「やっぱり天龍源一郎は頼れる男だよ」などと楽しくすごすその時間が、そのときばかりは衝撃と悲しみの時間に一変。「午後の診療を投げ出して帰って泣きたい」という気持ちになりましたが、「いや、馬場さんならこういうときも淡々と仕事をこなすに違いない」と自分に言い聞かせて病院に戻ったことを、今でも鮮明に覚えています。
(同書より)

 私も、何かの拍子に、梶原一騎原作のマンガ「ジャイアント台風(タイフーン)」のセリフ、「大の男がこんなことで死んでたまるか」が口をついて出てきて、自分で自分にびっくりすることがありますけどね。前田日明のカッコいい言葉なんかみーんなとっくに忘れちゃっているのに、五十年前のマンガのセリフは出てくるんだから不思議なもんです。
 香山リカという人が、これだけテレビにも毎日露出し、著書もばんばん出している人なのに、あまりマスコミ文化人的な嫌みを感じなくてすむのは、たぶん、こういう、大衆なら誰でも持ってるあっけらかんとした感覚を正直に語れる資質を持っているからでしょう。なかなか得難いセンス。やはり、最初にぶつかった「巨きな」ものが馬場さんだったのが正解だったのか。
 この「知るを楽しむ」の中で、香山リカは、ものすごく大切なテーゼを言いました。それは、「馬場さんのいない世界に生きる私たち」という問題。私は、ほおーっと感心したものです。この人は、度胸ある。

 世の中の変化は、プロレスの世界以上です。「金を儲けて何が悪い」と平気で口にする富裕層が増える一方で格差も広がり、仕事も住む場所もなく生活にあえぐ人たちが確実に増えています。また、「自己責任」などということばのもと、弱い人、苦しむ人へのいたわりや思いやりの心も、いまの社会からはどんどん消えて行きつつあります。
 プロレスの世界に対しても社会に対しても、決して「このままではいかん!」と大声をあげることはなかった馬場さんですが、おそらくいまの状況を見たら「違うんだよなあ」と悲しそうにため息をついたことでしょう。
 「空想が行きすぎるよ」と言われるかもしれませんが、私はときどきこうも考えるのです。馬場さんがいたときには、プロレスラーやファンだけではなくほかの人々も、心のどこかで「馬場さんに恥ずかしいことだけはすまい」と思っていた。その馬場さんがいなくなったからこそ、平気で人を裏切ったり傷つけたりする人がここまで増えてしまったのではないか。馬場さんが生きていれば、世の中、いまよりもう少しマシだったのではないか…。
(同書より)

 知識人なら、学者なら、これくらいのことが言えなくてどーする!と思いましたね。痛烈に。