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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



一月の小樽 (二)
 
 

 一九二八年 一月一日夜
 さて新らしい年が来た。昨年は何をやった。
 Tが、「復活」のカチゥシャと同じように、自分から去って行った。思想的に、断然、マルキシズムに進展して行った。(中略)
 そして、その間に東京へ出ようとあせった。
 さて、新らしい年が来た。俺達の時代が来た。
 我等何を為すべきかではなしに、如何になすべきかの時代だ。
         *
 「防雪林」は百三十枚程迄出来上った。もう、十五、六枚で終りだ。
(定本小林多喜二全集 第十三巻/日記)

 残っている小林多喜二の日記(1926年〜1928年)って、微妙に違星北斗の日記と時期が重なっているんだなぁと変な感心。(北斗の日記は1926年〜1929年)

 上に引用した部分が最後の書き込みになります。つまり、一九二八年元旦の夜に日記を書いて、それでパタッと多喜二の日記は終わり。こんなところも、一月六日の日記に「世の中は何が何やら知らねども/死ぬ事だけはたしかなりけり」の歌を残してあの世へ逝ってしまった北斗を思わせないこともない。
 まあ、多喜二は小樽拓銀のエリート行員ですから、ちがうっていえばこれほどちがうものもないだろうけれど。片や、新年の決意表明。これから首都決戦の東京へ。片や、辞世の歌。東京の我が身ひとつだけの幸福をよしとせず、意図して北海道に戻った北斗とは、どこか人間の土台がちがう…

 で、文中にある「防雪林」。タイトルには「北海道に捧ぐ」と副題が。(違和感、あるなぁ… なんのつもりで「北海道に」「捧ぐ」なんだ?)
 読んで、さらに吃驚。なんだろう、これ。「カインの末裔」の模倣ではないだろうか。そして、弱い造形。「我等何を為すべきかではなしに、如何になすべきかの時代だ」。有島武郎の「広岡仁衛門」という造形を共産主義的な闘争理論や戦術で乗り越えようとしている多喜二の姿を感じますが、そんな簡単には有島を越えることはできないと思います。多喜二は根が善人だから。有島武郎が持っている生まれついての「毒」のような存在意識がないと、なかなか「カインの末裔」の世界を越えることは難しい。戦略の誤りは、戦術ではとりかえせません。

 やはり、語り伝えられているように、多喜二は本当に「いい人」だったんだと思いますね。日記にも出てくる「T」。その、恋人だったタキさんの死を暮れの新聞が伝えていました。最後に、その記事の引用を。多喜二の故郷、秋田の新聞から。

 小林多喜二の恋人、タキさん死去 101歳
 大館市生まれの作家、小林多喜二が終生思いを寄せた女性、タキさん(旧姓田口)が、老衰のため今年6月19日に神奈川県内の介護老人施設で死去していたことが分かった。101歳だった。親族が10日、明らかにした。
 タキさんは、北海道小樽市の料理屋で働いていた16歳のとき、当時銀行員で21歳の多喜二と出会った。多喜二は美ぼうのタキさんに引かれ、小樽や東京で一時期同居して結婚を望んだが、実現しなかった。弟妹たちの面倒を見なくてはいけないタキさんが身を引いた?と伝えられている。
 エリート銀行員だった多喜二は、タキさんとの交流を通じて人間的にも文学的にも成長し、プロレタリア作家として社会変革を志すに至ったとされる。社会の底辺で生きる女性を主人公に、「瀧子(たきこ)もの」と呼ばれる数編の作品も残している。
 多喜二は思想犯として逮捕され、29歳で死亡。タキさんは戦後になって事業家と結婚した。親族は「本人は平穏な晩年を送りました。幸福な一生だったのではないでしょうか」と語った。(後略)
(さきがけ on the Web 2009/12/11)