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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



一月の小樽 (一)
 
 

 啄木の明治四十一年日記は二種類あります。一冊は「明治四十一年戊申日誌」。で、もう一冊が「明治四十一年日誌」です。便宜的に、最初の一冊を「戊申日誌」、もう一冊を「四十一年日誌」と呼びたいと思いますが、通常、啄木の明治四十一年の日記としてとりあげられるのは「四十一年日誌」の方です。

一月一日
 起きたのは七時頃であつたらうか。門松も立てなければ注連飾りもしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔したものもない。
(戊申日誌)

 書き出しの「一月一日」こそ、「戊申日誌」「四十一年日誌」ともそんなにちがいはありませんが、その後、「戊申日誌」は(前年の「明治四十年丁未歳日誌」をひきずる形で)小樽の正月の毎日をメモ風に綴って行きます。が、しかし、それも最初の数日だけで、だんだんやる気がなくなってしまったのか、最後のあたりは

九日
 午前沢田へ小国君と共に、留守、
 夜再び、奥村、谷と鯉江、婦人の話、ゴルキイ、函館の女、社会主義、個人解放運動、

といったありさまで、とうとう

十二日
 十一時起床、奥村、 保、共にちか子 諾、沢田、九時半帰る、万才

で中断となってしまいます。いったい何が「万才」なんだか…

 たしかに「万才」の夜ではあったんです。それがわかるのは「四十一年日誌」を読んだから。「四十一年日誌」の特徴がよく出ているので「十二日」部分を引用してみます。長いけれど、ご辛抱を。

(一昨夜はアンナ御答を致しましたが、)とちか子さんが云ふ。(考へて見ますと自分は欠点だらけの不束な女でございますから、却つて沢田さんに御迷惑では居らつしやらないかと心配で心配で堪りませんのでございます。ですから若しも只此儘末長く御交際して頂くのでございますと大変安心なのでございます。)
(婦人の生命は愛です。婦人から愛を取り去れば、残る所は唯形骸許りです。随つて妻になる資格は、何も面倒なものは要らない、唯愛一つさへあれば充分であると思ふです。尤も、貴女が沢田君並びに其家庭に同情して下さらむのなれば、幾何申上げても致方がないのですが、……然し先夜貴女の御洩し下すつたお言葉から考へるに、決して然うではあるまいと僕は思ふですがな。)
(それはモウ御同情は充分……充分に致して居りまするのでございます。)と切々に云つて仄かに其美しい顔を染めた。
(そんなら、それで何も面倒な事はございません。既に母君及び兄上の御考が貴女次第となつて居るのですから、貴女は其唯一つの財産、乃ち其深い美しい同情の御心だけを持つて沢田君の家庭の人になつて頂きたいです。沢田君は無論それ一つの外何物をも要らんです。貴女は手も足も途中に捨てて行つても宜敷い。其心一つで沢田君の落寞たる家庭に春が来ます。僕は頼むです、深く頼むです。)
(若しも、)と云つて顔を上げて眼を輝かしたが、俯向いて、そしてシドロモドロの声で云つた。(若し私の凡ての欠点を御許し下さるなら、御言葉に従ひます。)
(四十一年日誌)

 なんと!セリフが入っている! 喋る啄木とは…

 桜庭ちか子は潮見台小学校の先生をしていた人。どういう経緯があったのかは知らないが、小樽日報のイラストなども描いていて、啄木とも当然面識がありました。啄木は日報社同僚の奥村寒雨から、ちか子にどこかの馬鹿息子との縁談話が持ち上がっていることを聞き及びます。憤る啄木。そんな馬の骨と結婚するくらいなら、我らが函館時代の友人沢田信太郎君と一緒になりなさい!と真栄町の桜庭家へ談判に赴いたのが一昨日のこと。玄関で、じかにちか子に答えを迫るというのが、いかにも啄木というか、二十一の世間を知らない兄ちゃんというか。
 翌十三日には、ちか子の家からの帰り道、福原病院の坂道で雪にすべってすっ転ぶ啄木というアクションまでついて、いやー、「四十一年日誌」は至れり尽くせりの読者サービス大会ではあります。この調子で釧路時代に突入してゆくのですから、ファンにとってはたまらない北海道漂泊フィナーレでしょう。

 私の想像ですが、おそらく啄木は意図して小説の練習をしているのではないかと思います。すでにこの明治四十一年一月小樽時点で啄木の「東京病」は勃発していると私は見ます。だからこそ、東京へ帰るための起死回生の必殺技が必要なのであり、選びとったものこそが「ツルゲネフの物語」、つまり、「小説」だったのではないか。
 「戊申日誌」は意図して棄てたのだと思います。去年の「明治四十年丁未歳日誌」みたいな書き方では駄目なのだ、もっと一発逆転の技でなければこの北海道を出られない、東京に華々しく復帰できない… だからこそ、釧路出発までのどこかの時点でノートを改め、啄木は一月一日から書き直し始めたのでしょう。

 私には、この秘かな努力をする啄木の姿がとてもいじらしく思えます。

 さすらひ来し北の浜辺の冬は寒く候、
(明治四十一年一月一日 小樽より 金田一京助宛年賀葉書)

 頑張れ、啄木。東京に帰りたかったのだね。わけのわからない小樽でつぶされ、むざむざと死にたくはなかったのだね。