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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十二月の小樽 (二)
 
 

 忍路高島およびもないが
 せめて歌棄磯谷まで
 (祝津/江差追分歌碑)

 この追分歌、忍路(おしょろ)、高島(たかしま)、歌棄(うたすつ)、磯谷(いそや)の四場所を併せ請け負った西川家の繁栄をうらやんだ歌とも、あるいは、男を追ってきた女衆が女人禁制ゆえ神威岬を越えられない悔しさをうたったものともいわれてますが、どちらにしても、背後には場所請負制の利権をあくまで守り抜こうとした松前藩の蝦夷支配の姿があります。あの松浦武四郎もはげしく怒った場所請負制。その象徴のひとつが神威岬以北への女人禁制でした。

神威岬以北への女人通行が解禁
 一八五五年十二月二十二日、箱館奉行が、役人の梨本弥五郎に妻を伴っての宗谷赴任を許可した。これにより、長らく続いた積丹半島・神威岬以北への女人通行禁止が事実上、解かれた。
 新北海道史によれば、同岬付近では帆をおろしコメや神酒を捧げ航海するのが慣例。女が乗っている船は必ず沈められるとされていた。それを奉行所が、いわゆる西蝦夷地への移住を促すという政治的目論見があって、この禁をあえて無視したわけだ。
 翌年、弥五郎赴任の際は、やはり海は荒れたそうだが、「そんなの迷信」と無事、到着した。
 これを聞いた漁師たちは稼げる漁場を目指し続々移住した。弥五郎、実は高島、小樽の繁栄の礎を築いた恩人なのである。
(北海道新聞2007年12月22日/小樽後志版「きょうは何の日」)

 小樽の側から、これを見ますと

 幕府は蝦夷地の警備を厳重にすると共にその開拓を奨励した。堅実な土着民を増加させることは蝦夷地の確保にとつて最も有効な手段だつたからである。(中略)
 殊に小樽以南の各場所は鰊等の漁獲を追つて入稼をする者が益々多きを加えたので、これを妨げるものを除く方針をとり、(中略) 更に西蝦夷地に於ては積丹半島御神威岬を婦人が通過すると難船すると称して、その以北に婦人の来るのを許さず、移住者の足が悉くこの以南に止つていたのを、幕府は全く無視し、詰合・在住の役人は勿論、支配人・番人迄妻子をつれて移ことを奨励し、安政四年二月には長万部より蝦夷地に向つて新道を開鑿し、なお先々まで開撃して行くから、附近で開墾を企てるものは勿論、旅人宿等の営業を希望する者は随意出願すべしと達し、…
(小樽市史 第一巻/第五章 幕府の再直轄と小樽)

 上の文中、「長万部より蝦夷地に向つて新道」とあるのは、現在の国道230号、当時の「本願寺道路」ですね。神威岬の解禁と本願寺道路はこういう風に絡むんだぁと、変な感心をしました。