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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十二月の小樽 (一)
 
 

 12月4日は小樽の古い人たちにとってはちょっと特別な日。今から36年前のこの夜、海員会館に集まった人たちがありました。

 小樽の歴史的遺産・運河を残そうと、「小梅運河を守る会」の第一回発起人会が四日夜、海員会館で開かれ、今後の運動方針などを話し合った。その結果、代案を作るなどして、道道臨港線工事で運河が埋め立てられぬよう広く働きかけることが決まった。
 発起人会には郷土史家の越崎宗一さんら世話人を中心に画家、詩人、教師、経済人たち約二十人が集まった。運河のスライドを上映した後、越崎さんが運河の歴史的意義を説明、「運河が埋められないうちに、保存を働きかけよう」と呼びかけた。
(北海道新聞 昭和48年12月6日 小樽後志欄)

 その後二十年に及ぶ「運河論争」がこの夜から始まります。

 小樽港の運河は四十一年から工事が始まった道道臨港線工事で、早ければ来年早々にも北浜の約五百メートルを残して埋め立てられる予定で、工事は有幌地区まで進んでいる。
 この日集まった人はほとんどが運河とともに育った“小樽っ子”。「小樽の顔だ」「心のよりどころ」「運河が小樽の人情を育てた」「なくなったら寂しい」など運河を惜しむ声が強かった。
(同記事より)

 新聞記事だから、穏当に「なくなったら寂しい」などとなっていますが、この夜集まった人たちの想いのほどは、二十年でも三十年でも争ってやるくらいの怒りではなかったと思えます。この夜集まったことには理由があったのです。無念の思いがあったのです。それは、この記事にもちらっと出てくる「有幌」の倉庫群。その惨殺を、この人たちは目のあたりにしたばかりなのだから。

有幌石造倉庫群 道道小樽臨港線の建設に伴って、昭和四七年十一月、有幌石造倉庫群が解体撤去された。有幌は海岸を埋立て、水路、倉庫などの港湾関連施設を築造してきた地区である。明治四年(一八七一年)、海関所は常夜灯を設置した。明治初期の帆船(北前船)時代、入船川(クッタルウシ川)川尻が、船のかかり場として適していたことから次第に港湾流通の基地となった。同三〇年(一八九七年)ころから石造倉庫が建設され、倉庫街を形成するに至った。
(小樽市史 第十巻 文化編)

 啄木も小樽日報に描いた小樽市街の最古層。そこに建つ有幌の倉庫群です。商業都市小樽を築いてきた名家たちの石造倉庫が覇を争うようにそこには建ち並んでいたのです。

歴史を刻んだ石造も次々
 臨港線工事は五十二年度までに国道五号線若竹入り口から臨港地帯を通り抜け、運河の上を走って稲北交差点までの三千五百五十メートルを六車線道路で結ぼうという計画。すでに若竹入り口からの第一工区(九百三十メートル)は完成、(中略) 五日は手始めとして石造倉庫にはさまれたレンガ造りの板谷商船倉庫が取り壊され、骨組みの木の柱もあらかた取り去られた。石造倉庫の取り壊しは、ユンボーというパワーショベルで引き倒す方法がとられ、まもなくその工事にとりかかるという。
(北海道新聞 昭和47年10月6日 小樽後志欄)

 取り壊しは、同年度に、二葉倉庫、大家紹嘉倉庫、猪股倉庫、中村俊治倉庫。48年には、西村倉庫、木村倉庫、鎌田孝治倉庫と続き、「小梅運河を守る会」が発足する同年12月までに、ほとんどの有幌倉庫群が移転又は解体撤去されました。12月4日、海員会館に集まった人たちは、これを見てきたのでした。もう我慢ができない。この上、小樽運河の消滅を見過ごしたら、いったい私たちは何なのだ…という行き場のない怒りや悲しみがあったのではないでしょうか。
 
有幌石造倉庫群・森本三郎画 (「小樽市史」第十巻より)
 

 二十年前縁あって小樽に移住してきた時、私も運河にはかなりの違和感があったのです。なにか、ちがう… 高校生の時に歩いた運河とちがう。幅が狭められ、工場から魚介滓を棄てることもなくなり、観光客用に(観賞用に)小綺麗に整備されたからかとも長い間思っていたけれど、今回、この記事を書いていてようやくその理由がわかりました。有幌倉庫群が消えたからだったんですね。

 なんてことをするのだろうか… 36年経った今でも、私にも怒りがこみあげてくる。