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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十月の小樽 (二)
 
 

 元スパイダースのギタリスト・井上堯之が南小樽病院で歌のボランティアをやっているということを知ったのは、初夏の頃、父親の入院騒ぎで頻繁に中山峠越えをくり返していた車の中だった。カーラジオのNHK第一に本人が出演して、そこで歌った「ふるさと」が今も耳に残っている。歌もよかったが、そこで語っていた「ふるさと」の超絶解釈が忘れられない。
http://www.hokkaido-rinri.jp/otaru/news/173_index_msg.html
ほんとうに「南小樽病院」だ。(小樽って、幸せな街だと思う)

 こういう歌のボランティアをやっている人たちは多いらしく、最近、啄木のことを調べていてこのホームページに行きあたりました。

http://www.kayou.org/index.htm
音楽ボランティア「昭和歌謡癒快楽団 おもひでチューズデー」は、大学時代の音楽仲間が集まり、戦前・戦後の歌謡曲をレパートリーに、老人ホームを訪問したり、地域のイベントに参加したりして、けっして上手とはいえない演奏を、ボランティアで披瀝しています。

 ここの「Morichan blog」を愛読しています。とても勉強になる。軽い語り口で書かれていますが、バックにある知識はけっこう凄いよ。ただ者じゃない。たとえば、

「そう、そうじゃないか!何のための新聞社なのだ、この新聞社は?」
寅吉事務長は、不良少年を諭すように言いました。
「経営を無視して新聞社は成り立たない。高い給料を払っているのに、欠勤ばかりして、前借ばかりして、仕事をしないで何をしているのか分からない奴がいると、こんな小さな新聞社でも組織なので困るのだ。自分のことを棚に上げて人ばかり批判している貴様みたいな小生意気な奴がいると、社会のための新聞社になれないのだ。貴様がいると当社は本当に困るのだ!」
啄木さんの表情が瞬間変わりました。
「こんな新聞社なんか、辞めてやる!」
(童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ<108> またもや、小樽日報社内で事件発生!<2>より)

 これは、あの有名な明治四十年十二月十二日夜の啄木殴打事件。寅吉の拳骨直後の二人のやりとりが書かれているのですが、驚くべきことは、Morichan氏も、寅吉がかつて山本千三郎の下で働いていた人間であることをきちんと踏まえて二人を描いているのですね。そればかりではない、ちゃんと、啄木が数え二十二歳の若造であることも踏まえているし…

 世の中には凄い人もいるもんだ。でわ、「Morichan blog」、ぜひお読みくださいね!

 で、終わってもいいのだが、「小樽の女よ」はどーなったんだ!という声もあるので、もう一つだけ引用をお許しください。

 ちょっとここで、この鶴岡雅義と東京ロマンチカが唄った「小樽のひとよ」についての逸話を、もりちゃんは語らずにはおれません。「小樽のひとよ」は、もともと「粉雪のラブレター」という曲名だったのであります。「小樽のひとよ」は42年10月に発売されていますが、その前の9月に「粉雪のラブレター」が発売されています。これはどういうことでありましょうか?
 テイチクレコードの札幌営業所長が、小樽に本社を置くチェーン・レコード店「玉光堂」の社長に「粉雪のラブレター」のヒアリングを行ったところ、「『粉雪のラブレター』には、小樽が1番にしか出て来ない。もっと小樽を全面に出した歌詞に作り変えてほしい」という意見だったのでありますな。その話はすぐに東京のテイチク本社に伝えられ、高柳六郎プロデューサーから作詞家の池田充男に歌詞変更の要請がなされたのであります。1番の歌詞は小樽が出てくるのでそのままにして、2番と3番が作り直され、再レコーディングされたのであります。10月の発売となったのは、そういう訳でありますな。ところが「小樽のひとよ」は北海道だけの発売でありました。
 北海道以外で発売された「粉雪のラブレター」は売れませんでしたが、北海道で発売された「小樽のひとよ」はジワジワと札幌と小樽などで売れ出し、折りしもNHK連続テレビ小説「旅路」(高橋幸治・日色ともえ)が小樽を舞台にしていたこともあってか、全国に広がり、150万枚の大ヒットとなったのであります。
(同ブログより)

 「旅路」かぁ…懐かしいな。「旅路あるのもありがたし」だもんね。当時の「玉光堂」北海道支配の威力もまざまざと思い出します。いやー、勉強になった。