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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十月の小樽 (一)
 
 

 きっかけは、雨続きの今年の七月、苦し紛れに撮った「今日の小樽」の一枚でした。手宮から見る小樽ってカッコいいなと思った。まだマンションも建っていないし。町の先に雨の小樽湾や平磯の岬がドドーンと煙(けぶ)る姿が気持ちいい。
 で、こんなに素晴らしいロケーションなんだから、きっと通りや坂に由緒ある名前がついているんだろうと思って市内の坂や道を調べ始めたのがきっかけだったのです。(で、この道には別に何の名前もついていない、ただの手宮の道だということがわかって、それはそれでひどく小樽的だと感じいったのでした…)
 市内の坂や道を調べている中で見つけたのが、昭和48年10月から11月まで北海道新聞小樽後志版に連載された「あの道この道」だったのです。

 六十六年前、公園通りの間借り住まいから静屋通りに通う一人の青年がいた。着流しの風さいは上がらないが、目は理想を追って輝いている。時折、同僚と激しい口論を交わしながら通り過ぎることもあった。話題は決まって中央文壇の動きか、職場の上役に対する批判であった。
 この小柄な若者は、新聞記者だった石川啄木。出入りする新築の二階建ての玄関には、小樽日報社の看板が掛かっていた。編集室の窓から炊み屋の赤ちょうちんが雪にかすむのを見るにつけ、生活の不安はのしかかるばかり。東京から遠く離れたあせりの日々…。
(第14回/静屋通り)

 というように、ストレートに勉強になる部分もあるけれど、「あの道この道」のおもしろさはこんなレベルではありません。細部を入念に読んで行くと、驚きの連続です。

 転勤か旅行で小樽駅に降り立った人ならだれしも、港に向かって続く一本の道を思い思いの感傷を込めて見渡すのではないだろうか。中央通りという名のこの駅前通り、ビルの林立した華やかさはない。遠くに港を望みながら商店の低い家並みが連なる。そこに近代化の遅れを見るか、それとも小樽の良さを見るか、人によっておのずから違いがあろう。
 駅前に住む内海宗作さん(八三)=稲穂二ノ二一=はこの通りとともに生きて来た古老。明治四十年(一九〇七年)、秋田から移り住んだ。「その時、私は十六歳でした。父親が小樽で一旗揚げようとのです。はっきり覚えていませんが、そのころではないてしょうか。中央通りと呼ばれるようになったのは。家はポツポツと建っている程度で、函館大火の被害者が多かったようです」。
 内海さんは移住のあと、駅夫となる。その後この通りを離れたのは、東京で働いた大正初めの七年間だけ。小樽の良さが忘れられず舞い戻った。それから五十年余り―。「今も昔もほとんど変わりません。もっともこれからは違うでしょうが」。小樽の“新しい顔”をつくる駅前再開発事業は今、たけなわだ。
(第17回/中央通り)

 どういう計らいで、ここに「駅前に住む内海宗作さん(八三)」を持ってきたのかはわからないが、これ、大ホームラン。明治四十年は、四歳の多喜二を連れた小林一家が、内海さんと同じ秋田から小樽へ移住してきた年。そして、「函館大火」の言葉にもうかがえる通り、大火で焼け出された石川啄木が九月の札幌を経て小樽にたどり着いた年。
 さらに、大発見が… 内海さんは「駅夫」であったという。この中央通りの起点は「中央小樽駅」。そこには啄木の義兄でもある駅長・山本千三郎が座っている。さらに意外な人も、かつて、ここには勤めていたのです。
 
(市立小樽図書館所蔵「国有紀念写真帖」より「中央小樽駅」)
 
 中央に立っているのは助役の小林寅吉。そう、啄木が小樽日報社を辞めるきっかけになった殴打事件。その張本人の事務長・小林寅吉です。寅吉は日報社に入る前は、中央小樽駅で、山本千三郎の下で働いていたのでした。だから、三年前、詩集(!)を出すため金を無心にわざわざ小樽まで船で来たアホな若者のことももちろん知っていたのです。

 駅夫だった内海さんも、きっと、小林前助役の風聞をどこかで聞いていたでしょうね。小樽の年寄りの中には、見たこともない啄木のことを、まるで借金や殴打の現場に居合わせたかように語る類の人が多いのですが、原因は意外とこんなところにあるのかもしれない。
 そういう意味で、「あの道この道」はおもしろい。「小樽」というものが今に持っている下世話さがじわーっと滲み出てくる。