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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の小樽 (四)
 
 

 明治四十年九月二十七日、石川啄木、小樽着。

 新らしき声のもはや響かずなった時、人はその中から法則なるものを択び出ず。されば階級といい習慣といういっさいの社会的法則の形成せられたる時は、すなわちその社会にもはや新らしき声の死んだ時、人がいたずらに過去と現在とに心を残して、新らしき未来を忘るるの時、保守と執着と老人とが夜の梟のごとく跋扈して、いっさいの生命がその新らしき希望と活動とを抑制せらるる時である。人性本然の向上的意力が、かくのごとき休止の状態に陥ることいよいよ深くいよいよ動かすべからずなった時、人はこの社会を称して文明の域に達したという。
(石川啄木「初めて見たる小樽」冒頭)

 毎年この季節になると、なんとはなしに、啄木にとっての小樽って何だったんだろう…ということを考える癖がついてしまった。伊藤整でも多喜二でもなく、啄木なのは、たぶん私も流れ者だからだろう。
 「初めて見たる小樽」。当時最先端のメディア「新聞」を使って、啄木が直にリアルタイムで「小樽」というものに向けてものを言った、おそらく、これが最初で最後の言論なのではないか。だから、私にはとても大事なもの。こういうことにお世辞や遠慮がある人ではないから、私もストレートに読みとってみたい。
 「人はこの社会を称して文明の域に達したという」。啄木はこの「文明」を「死法則」と呼ぶ。階級といい習慣といい社会道徳といい、自らが生み出し、自らが作れる縄に縛られ、自らが作れる狭き獄室で惰眠を貪る輩に痛罵を浴びせる筆には少しばかり偏執的なものを感じるほどだ。啄木は、この「死法則」と闘えと主張する。

かくて人生は永劫の戦場である。個人が社会と戦い、青年が老人と戦い、進取と自由が保守と執着に組みつき、新らしき者が旧き者と鎬(しのぎ)を削る。勝つ者は青史の天に星と化して、芳ばしき天才の輝きが万世に光被(こうひ)する。敗れて地に塗(まみ)れた者は、尽きざる恨みを残して、長しなえに有情の人を泣かしめる。勝つ者はすくなく、敗るる者は多い。
(同書より)

 勝者は少ないが、勝った者こそが「天才」であるというのが啄木の論理展開なのだろう。その「死法則」の度合いを、啄木が辿ってきた北海の三都に適用すると、どうなるか。まず、函館。

 初めて杖を留めた凾館は、北海の咽喉(のど)といわれて、内地の人は函館を見ただけですでに北海道そのものを見てしまったように考えているが、内地に近いだけそれだけほとんど内地的である。
(同書より)

 つまり、説明するまでもなく「死法則」であると。だから、八月二十五日夜の大火は、函館における背自然の悪徳を残らず焼き払った天の火であったのだ、と。次、札幌。

 札幌に入って、予は初めて真の北海道趣味を味うことができた。(中略) しめやかなる恋のたくさんありそうな都、詩人の住むべき都と思うて、予はかぎりなく喜んだのであった。
 しかし札幌にまだ一つ足らないものがある、それはほかでもない。生命の続く限りの男らしい活動である。
(同書より)

 で、小樽。啄木は、小樽に来て初めて真に新開地的な、真に植民的精神の溢るる男らしい活動を見た、という。男らしい活動が風を起す、その風がすなわち「死法則」を撃ち破る自由の空気であるのだ、と。

 内地の大都会の人は、落し物でも探すように眼をキョロつかせて、せせこましく歩く。焼け失せた函館の人もこの卑い根性を真似ていた。札幌の人はあたりの大陸的な風物の静けさに圧せられて、やはり静かにゆったりと歩く。小樽の人はそうでない、路上の落し物を拾うよりは、モット大きい物を拾おうとする。あたりの風物に圧せらるるには、あまりに反撥心の強い活動力をもっている。されば小樽の人の歩くのは歩くのでない、突貫するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、しかし軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。
(「初めて見たる小樽」結末)

 若いなあ… いくら啄木とはいえ、二十一歳の兄ちゃんは二十一歳の兄ちゃんだ。「男らしい」って何なんだよ(笑) 寅吉の拳固一発で粉砕されるのも無理はないか。イントロとエンディングの落差に、まだ「啄木」へ孵化してはいない青年・石川一の現在がある。
 

 

 あと、つまらん蛇足をひとつだけ。なぜ、この文章は「初めて見たる小樽」なのだろう? いつも不思議に思う。啄木が小樽に来たのは、これが「初めて」ではないのに…