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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の小樽 (二)
 
 

 廃船のマストに
 けふも浜がらす鳴いて
 日暮れる張碓の浜
  (小樽/並木凡平歌碑)

 不思議な歌。「廃船のマスト」とか、「浜がらす」とか、どちらかというと北防波堤方面の風情にも感じるのだが、この歌が、クラークやモースも通過した神居古潭(そして、崖下にはクロフォードの幌内鉄道)にかかっていると思うと、なんか、いろんなミスマッチが重なって、結局、「張碓(はりうす)」はこれでいいか…という気になってくる。まあ、あそこにあるのは、前回「柔らかな頬」でもご紹介した黒々とした岩肌の海なんで、とても「日暮れる浜」といった砂山チックな光景ではないのですが、それでも赦す。ロケーションといい、かかっている歌といい、小樽の歌碑の中でいちばんカッコいい歌碑ではないだろうか。

 並木凡平歌碑 朝里不動尊境内・昭和一三年(一九三八年)建立
 大正の小樽をこよなく愛し、庶民の生活をたたえたヒューマン詩人並木凡平(なみきぼんぺい)の歌碑は、国道五号沿い朝里不動尊境内に立っている。
 凡平生前の昭和一三年九月二四日、門下生らによって建立された。
 凡平は、本名篠原三郎、明治二四年五月二一二日札幌元村に生まれ、幼少時代を父と台湾で過ごす。一九歳のとき小樽新聞記者になり、口語歌壇選者としてまた歌誌『新短歌時代』『青空』などを創刊、編集者として地元の歌壇の指導に当たった。
 碑文は、「廃船のマストにけふも浜がらす鳴いて日暮れる張碓の浜」凡平
(小樽市史 第十巻 文化編)

 文学案内とか事典の説明は見飽きたので、今回は、ちょっと毛色を変えて市町村史から拾いました。北海道には、室蘭や稚内にも凡平歌碑があります。こちらも各市史を覗いてみますと、

 並木凡平短歌碑(常盤公園) 口語短歌の鬼才といわれた凡平(篠原三郎)を記念するため、昭和二十六年(一九五一)ポンモイ岬に歌仲間の山本修平、工藤順蔵らが歌碑を建てた。その後、四十七年十一月二十四日、常盤町の常盤公園内に移された。この歌は、凡平が室蘭日報の整理部勤務時代につくられたものである。
 「ここだけは鉄の吃りも聞えない 電信浜のなみのささやき」
(新室蘭市史 第三巻)

 昭和十一年十月十日、三日前長男が生まれその名前に頭をひねっていた川越秀次宅(本通南一)を新短歌の提唱者並木凡平が訪ねてきた。凡平はそのころ新鮮な感覚をもって歌づくりに明け暮れ、歌壇に名声をはせていた。川越は昭和四年から新短歌の稚内における責任者となって、みずからも筆をとったことがあり、凡平が訪ねてきた当時はその任にはなかったけれども、札幌に出れば小樽まで足をのばして凡平を訪ねたりしていた。
 酒豪の凡平をむかえ、川越は長男の名前どころではなくなった。
 一夜明けた朝五時ころ、川越は、ふらりと家を出てゆく凡平のうしろ姿をみた。散歩に出かけたくらいに思っていた。
 三時間ほど経って、出かけるときのように、ふらりと凡平は帰ってきた。
 その夜、凡平は色紙、短冊を川越に求め、さらさらと五、六枚に筆を走らせた。川越が気に入った稚内の歌が一つあった。
  八十段のぼりつめたる北門の
       社にひらく宗谷海凪ぎ
 川越には、北門神杜の階段をのぼり、境内から海峡を眺めている凡平のひようひようたる姿を瞼に描くことができた。
 凡平は三晩川越宅に泊り、肌寒い北風の吹く稚内を去って行った。
 お蔭で川越が長男に公夫と名づけたのは、誕生から一週間も経ったころである。
 並木凡平のこの歌碑が同四十三年八月、林仁三郎の好意でゆかりの北門神社境内に建立された。
(稚内市史/「文芸に現われた稚内」より)

 ふーん。並木凡平が実際に住んで仕事をしていた小樽・室蘭の記述はそっけないのに比べて、単に、旅行で遊びに来ただけの稚内の記述がいろんな想いに満ちていて変に読ませる文章なのはおもしろいですね。(まあ、小樽・室蘭は扱う文学者の数も多いので、ひとりひとり稚内みたいに思い入れたっぷりに書いていた日には北海道文学史が一冊できあがってしまうのかもしれませんが…) それにしても、

 ここだけは鉄の吃りも聞えない
 電信浜のなみのささやき

 室蘭の歌は強敵ですねえ。もしかしたら、「廃船のマスト」に勝ってるかもしれない。